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映画「パーフェクトデイズ」のラストシーンについて僕の思うところ

僕は、この映画を海外旅行に行く機内映画で見た。
役所広司がラストに泣くシーンを見て、自分も泣いてしまった。

まず、この映画を見た理由としてドイツ人の友人が「ストレスがたまっているときに見るといいよ」とお勧めしてくれたからだ。
公開当初も話題になっていて興味はあったし、ドイツ人監督の映画をドイツ人の友人からお勧めされたのも何かの縁だと思い見てみた。

最後のシーンをみて、なぜ自分は泣いてしまったのか、海外旅行一週間を終えて、日本に帰国して1週間経った後も、この疑問が頭に残っていたのでこちらで文章化した。
ネットですでに他の人の考察や意見も見てみたが、やはり人によって見方が違うようだ。

私は、なぜ泣いたのか。一つは「共感」である。自分はつまらない人生だと割と悲観的に今を生きてしまっている。それを役所広司の役柄も、同じだろうなと想像して涙した。つまらないながらも小さいな楽しみを大事に過ごせば、それでいいや。ミニマルな生活をして、それ以上のことは多くは望まないスタンス。
しかし、そんな質素な生活をしていても他人の行動がどうしても自分の人生に影響してしまう。本当は自分のことなんかは放っておいてほしい。でも、どうしても他人の干渉がこちらが求めていなくても介入してきてしまう。
そこに対して、出てくる一つ一つの感情は胸の中にしまっておく。というか、受け流しておく(木が風に揺られるのを見たり、銭湯に行ったり、お酒を飲んだりして)
しかし、大きく感情を揺さぶられる出来事には、どうしても自分の奥底にある感情が出てきてしまう。(妹?か姉?の登場)

ラストシーンの少し前、アパートから姪を乗せた高級車が去っていくとき、ここでも彼は涙を流している。この涙は、「くやしさ・後悔・やるせなさ・みじめ・不甲斐なさ」の感情から来た涙だと思う。

そして来る朝、どんな時でも朝は来てしまう。そこに感情を揺さぶる曲を流した時(カセットだからあえて意図的にチョイスしているのだろう)、こみ上げてくる感情(先述の感情)に交じって、朝を迎えなければいけないという現実、それでも一つ一つの自然は美しく同じように朝を迎えている。頑張らなければ、でもこれが毎日毎日続くのか、、私はいつ死ぬのだろうか、どう死ぬのだろうか、もっと違う人生を生きてこれたのではないだろうか、、、、などなど入り混じった感情が最後の役所広司の表情から自分は見て取れた。

それと自分の人生を照らし合わせてみると、不思議とネガティブの感情にはならなかった。シンプルに生きれればそれでよい。
でも現実はそうではない。

丁寧に生きようとする努力は、これからも続けていく必要はあるはずだ。とぼくは思う。

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