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シンエヴァンゲリオン一点だけ気になった事を考察!(ネタバレあり)

(この記事はシンエヴァンゲリオン劇場版:||のネタバレを含みます、これから映画を観る予定の方はこの記事から離れることを推奨します)






何するためすらぷるためです。
今話題のアニメ映画、シン・エヴァンゲリオン観に行きました。自分にとってエヴァは旧劇、テレビシリーズと全て観ていたのですが「面白いな〜」と軽く思う程度で、がっつりハマったわけではないです。確かに面白いんだけど深くはハマれないという感じで、なぜなら現実にはないS2機関やらゼーレ、ネルフがどうだのリリスとリリンがどうだのアニメの世界だけの話ばかりで、またその虚構をグルグル考察している人たちにノれなくて、そういうのを見て「気持ち、いいの?」と思っちゃったからです汗

しかし今回のシンエヴァを観て、「アニメそのものの虚構」と戦うアニメだったということが解り、感動しました。メタと意図的なオマージュで構成して現実から虚構へツッコミを入れるような超リアル志向なアニメだったんですね、、、


自分は、リリスとアダムの魂がどうとか、ゴルゴダオブジェクトとかアダムスの正体がなんだとか用語を並べてごちゃごちゃ〜と解説しているのを見ると「うわぁ、めんどくせえ、、」と思ってしまいます。その空想の用語を並べて色々考察するのは確かにめちゃくちゃ楽しいのはわかるのですが、エヴァに出てくる聖書や化学の知識というのはドラえもんの道具でいうところの「お荷物運び用お荷物」なんだと思います。わざと解らなくさせているために用意した「考察させるための考察」というか、庵野監督の剥き出しの私小説をうまく隠すための情報と知識、、、その虚構の部分に捕らわれてしまうことが「エヴァの呪縛」だし、最終的に呪縛に捕らわれたままでいると「気持ち悪い・・・」とアスカに言われるんじゃないかと、だから「アニメに出てくる虚構」だけにとどまって考えることは絶対しないぞ!俺はエヴァの呪縛にはかからないぞ!

というわけで今回はマイナス宇宙を突き抜けて現実とリンクさせるつもりで、劇中で一点だけ気になったことについて話したいと思います。それは「新劇と旧劇で人類補完計画の意味が変わっているんじゃないか?」ということです。もっというと旧劇と新劇で補完計画後の世界が虚構なのか、現実なのかで逆転してるのではないかと思い、この二つの人類補完計画がどういうものだったのか順番に書いて比べてみます


旧劇の人類補完計画=アニメの世界(虚構)

旧劇ではサードインパクト後に人類の魂がリリスに戻ろうとします、リリスは「虚構のアニメキャラ」の象徴として巨大な綾波レイとなり、リリス自身もアニメ表現
で描かれています(手書きのアニメで描かれているというのがポイント)

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新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

この「人間の魂がアニメのキャラに入る」ということは補完計画後にアニメの世界が始まるということです。これは「アニメーターが自分のエゴで作ったアニメ」というのは、作っている人間は実は自分一人しかいない、登場人物も何人か出てきて他人のように見えるが結局自分(監督)の分身でしかない、つまり自分しか存在していない、他人のいない世界=自分が作ったアニメの世界=人類補完計画という図にみえました。庵野監督が「アニメーションはエゴの塊だから」と言っていたのは旧劇に対して言っていたのでしょうか?もしかして絵コンテを一人で作ってる宮崎駿のスタジオジブリのことだったりして・・・


新劇の補完計画=現実の世界

対してシンエヴァのラスト、リリスはかなりリアルな姿で登場します、おそらく実写で撮影した女性をアニメ世界に登場させているというやり方ですが、現実の世界にセルアニメのキャラクターが出てくる映画はマイケルジョーダン主演の「スペースジャム」や映画版「トムとジェリー」などいくつかありますが、シンエヴァではそれとは逆に「アニメの世界に実写を登場させること」というのをやっています。

旧劇でアニメ表現だったリリスが新劇で実写になったということは、補完計画後は人類の魂が現実の世界に行って一つに集約される、という実写のリリス=現実世界というメタファーに変わっています。そうなると映画のメッセージは「現実の世界とは他人のいない世界だ」ということになるのですが、そもそも他人とは自分とは異なる「個性」を持った存在と言い換えることができます。その「個性」を無くし他人がいない世界を作る、これは日本人ならとても馴染み深いのではないのでしょうか

つまり人類補完計画というのは個性を潰す日本社会のことを言っているのだと気がつきました。学校だといまだにある髪を染めてはならないという意味のない校則、文科省のショボい教育方針、社会に出ると履歴書を書いて「リクルートスーツ」という同じ姿をして就職、空気を読む行為など、個性を潰すシステムがいまだに残っています。戦前の天皇派や超国家主義思想「何か巨大なものにみんな集約される」という感覚が昔から日本人に根付いていて、これがシンエヴァでリリスがリアルな感じで出てきた意味なんだと思いました。

物語の最後にこの「個性を潰して皆同じになろうとする」社会を拒否して、他人のいる現実を碇シンジは選びます。このシーンで監督の「個性を持ち続けたまま社会に出よう!」的なメッセージがあるんじゃないかと思いました。

最後に言いたいのは、カヲル君やゲンドウが言う思わせぶりなセリフや知識は最初から色々考えさせる為に用意されたもの、なのでそれに関しては「よくわからん!」で正解だと思います。虚構を考えて考察し始めたが最後、エヴァの呪縛にかかり、最終的にアスカに死んだ魚の様な目で言われるのでしょう!「気持ち悪い・・・」

                                   終劇

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