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【子ども達の3.11】 Vol.03 勇成(石巻) 「命が助かったからには、少しでも復興に役立つ大人になりたい」

勇成さん(当時11歳)が住んでいた石巻市大街道地区は海に近く、地震と津波により壊滅的な被害を受けました。

教室のポスターにくるまって過ごした夜

小学校5年の授業中に大地震が起こり、生徒は全員体育館に避難しました。
大きな揺れがおさまり、とにかく家に帰ろうと校庭に出ると、膝下まで津波がやってきました。ドロっとした生温い、重たいものが足を引きずろうとする感触を今でも覚えています。

急いで校舎に戻り、上の階の窓から外の様子を見ると、渦を巻く様に車や人が津波に流されている光景を目の当たりにしました。その時、初めて大変な事態になっていることに気がつきました。

たくさんの近隣の人達が校舎へ避難しにやって来て、校舎の3階スペースが全部埋まるくらい多くの人でごった返しました。その中には、私の母と姉もいたので、安堵の気持ちが沸き上がりました。

学校には元々避難所としての機能がなく、毛布も備蓄もありませんでした。
電気が不通になっていたので、夜になると気温がぐんぐん下がり、ポスターやカーテンなど、教室内にある物全てを使ってみんなで寒い夜をしのぎました。「これからどうなってしまうのか」という不安な気持ちもありつつも、仲の良い友人達と一緒に教室にいる安心感もあり、複雑な想いでした。

父とは連絡がとれ、山に避難していることがわかりほっとしたのを覚えています。

大街道小学校の3.11

◎ 砂糖なめ飢えしのぐ/コピー紙並べ「気付いて」
3月13日の朝刊に、石巻市の学校を上空から撮影した写真が載った。屋上に「SOS」の白い文字が浮かんでいる。小さな人影が両手を大きく広げ、助けを求めていた。その学校は大街道小だった。石巻工業港から北へ約1キロ。3月11日の津波で1階が水没し、学校の周辺も海水に沈んだ。2,3階に避難した住民や教員、児童ら約600人が孤立状態に陥っていた。
甲斐好子さん(36)は地震後、首まで水に漬かりながら、近所のお年寄りや赤ちゃんを救助。ずぶぬれになって、母親(69)と学校にたどり着いた。恐怖と不安の一夜。上空に非常事態を象徴するヘリコプターの爆音がとどろいていた。夜明けが近づくと、爆音が交錯し始める。12日朝、何機ものヘリが、上空を飛び交っていた。甲斐さんら数人が屋上へ駆け上がった。ヘリを見上げる。「気付いて」。救助を求めようとの声が挙がった。誰が発案したか甲斐さんは覚えていないが、教員らがB4判のコピー用紙を持ってきて、並べ始めた。「SOS」。風で飛ばされぬよう、ウレタンの破片を重りにした。甲斐さんはヘリに向かって必死に手を振った。「何か物資を落としてくれないか、誰か降りてくれないかって…。でも、みんな飛び去ってしまった」約600人を飢えが襲った。備蓄食糧はなかった。避難者のうち子どもが約400人。わずかな食べ物でも、子どもたちを優先した。
11日は放課後児童クラブの菓子を児童らに分けた。12日、水が止まる。住民らはスティック袋に入った砂糖をなめた。北村統教頭(49)は「先生方や大人は2、3日間、ほとんど食べるものがない状態。我慢するしかなかった」と言う。水が徐々に引き始めた12日、自宅などから逃げ遅れた住民らが水に漬かりながら、続々と校舎に来た。避難者は1300人まで膨れ上がった。近所の中華料理店が炊き出しをしたのは14日だ。紙コップ半分ぐらいの野菜スープを皆ですすった。だが、周囲にガソリンやガスの臭いが漂い、炊き出しは中止せざるを得なかった。差し入れや買い出しで調達したわずかな食料を分け合った。自衛隊員が19日、おにぎりとお湯を運んできた。拍手が湧き上がった。「ごつごつした、いかにも男の人が握ったおにぎりだった」。甲斐さんはその味が忘れられない。
校舎の中では、懸命な救命、医療活動も続いていた。石巻市立病院の看護師中里珠丹さん(36)は12日早朝、教員の叫ぶ声を聞いた。「誰か看護師さんはいませんか」。1階の保健室へ行くと、ベッドに女性が横たわっている。低体温症だった。毛布はない。カーテンを体に巻き付けた。もう一人いた看護師と心臓マッサージを施したが、女性は間もなく、静かに息を引き取った。十分な治療設備はない。ピンセットはライターであぶって消毒した。急ごしらえの救護室には昼夜を問わず、行列ができた。中里さんは10日間、ほとんど寝る時間もなく、応急処置などに忙殺された。日赤の緊急医療チームがやって来たのは震災1週間後だった、と記憶する。「精神的にも肉体的にも、もう限界だった」(大友庸一)
出典:屋上のSOS。宮城県石巻市の大街道小学校。東日本大震災の津波避難

4世帯の共同生活

翌日、学校から家に向かおうとすると、いつも見慣れていた街並みとは全く違う世界に変わっていました。瓦礫とヘドロだらけになった道路の中を歩いて自宅にたどり着きました。

自宅の建物は残っていましたが、1階は浸水して真っ黒なヘドロで一変していました。辛うじて2階は被害が少なかったので、そこに家を流された祖父母や親戚も避難してくることになりました。2階の階段上の少し広いスペースに、4世帯での生活が始まりました。

電気も通っていませんでしたが、頭数も揃うと色んな知恵があり、皆んなで「より快適に過ごそう」と試行錯誤をする毎日でした。水汲みや配給の長蛇の列にも、みんなで協力しあいました。

家族とはよく話し合いをして、災害時の避難ルートを確認したり、防災備蓄品を入れたリュックを2階に常備することにしました。

「自分の身は自分で守り、家族のために戻らない」ということ、連絡が取れなくても心配がないように、集合場所を近くの山の中学校に決めました。

懸命に救助するレスキュー隊の姿

そんな状況の中、私の人生に大きな影響を与える出来事がありました。
レスキュー隊が逃げ遅れた人達をヘリコプターで吊り上げて人命救助する姿を目の当たりにしたのです。避難していた学校の校舎から見たその光景は、「すごい!」の一言。とても圧倒されました。

「自分もそんな大人になりたい」と強く思った瞬間でした。

こうして、震災をきっかけに「人を助ける」ということに意識が向きはじめました。沢山の人達に助けられたからには、今度は自分が助ける側になりたいという恩返しの気持ちです。

Support Our Kids

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Support Our Kidsに参加したのは、2014年の夏、14歳の時でした。2週間を過ごしたカナダでの思い出は、今でも私にとって大きな支えになっています。携帯に保存してあるカナダでの写真をいつも見返しては元気をもらっています。

一緒に行ったメンバーと連絡を取り合ったり、現地で出会った友人が日本に来る際には必ず会ったりと、今でも絆が続いています。ホストファミリーとも誕生日の度にメッセージを送り合っています。現地で中心となって私たちを受け入れてくださった日系カナダ人の協力者チャコさんやホストファミリーのご夫妻たち。こんなにも人の為に動いてくださる人がいるのだ、と驚きました。彼らもまた、私にとって「人の為に働きたい」という想いを実現しているロールモデルとなりました。

「命が助かったからには、少しでも復興に役立つ、誰かを助けられる大人になりたい」という想いがますます強くなりました。

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人を助けるために

現在、私は21歳になり、東北福祉大学の救急救命士課程で勉強しています。
将来、人を助けられるようになる為に選んだ道です。実習も多く体力的にもハードなコースで、入学時に43名いた入学生は今では18名 まで減ってしまいました。

しかし、私は実習先で先輩方に支えられながら多くを学ばせて頂いています。先日の実習では、救急車に同乗させて頂き、正に一命を取り留めるシーンに立ち 合いました。入学した時は消防士を目指していましたが、実習を重ねたことで、より救助に近い「救急隊員になること」が私の今の目標になりました。

東北の人達を今度は私が助ける存在になれるように頑張ります!


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14才当時の勇成さんの作文


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Support Our Kidsプロジェクト紹介映像


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