【子ども達の3.11】 Vol.01 凱士(石巻)津波で亡くなった母との約束を果たすためにパリの凱旋門へ
次世代に、未来を創造するバトンをつなぐ為に、未曽有の大震災を乗り越えた子ども達のストーリーをお届けします。
3,278人の尊い命が犠牲となった宮城県石巻市で、凱士(Gaishi)くん(当時11歳)は被災しました。
「生きていてね」
大地震が起きた時、僕は小学校に居て、積み木の色付けをしていました。
経験したことの無い大きな揺れに、絵の具は飛び散り、たくさんの色でまみれた床を、今でもよく覚えています。
そのあと、僕は当時7歳の弟と一緒に、小学校で親の迎えを待っていました。
携帯電話を見ると、母から、
「生きていてね」
とメールが入っていました。
僕は、すぐに離れたところに行って、母に電話をかけました。
しかし、母は出ませんでした。
間もなく、父が自転車で僕たちを迎えに来てくれました。
弟と父と僕は、三人乗りで自宅に向かいました。
自宅に向かう途中、地震で崩れた建物や道路が目に飛び込んできて、いつもとは違う景色が広がっていました。
その時はまだ、あとから津波が来ることなど、想像もしていませんでした。
自宅に着くと、間もなく、「津波が来るぞ!」という知らせが入りました。
僕たちは、3人で近くの社宅に逃げ込みました。
社宅の2階にあがる直前、黒い津波が僕たちの目に飛び込んできました。
震災から1か月後、母は見つかりました。
来る日も来る日も、僕と父は近所の安置所を回り、母を探しました。
ある日、母方の祖父宅に車で向かう途中、自宅から少し離れた安置所に立ち寄りました。
僕と弟は外で待っていたのですが、しばらくして、父が泣き崩れて安置所から出てきました。その父の姿を見て、
母が見つかったんだな
と、分かりました。
母は、当時、山の上の病院で仕事をしていました。
母が見つかった場所は、病院と僕たちが通っていた小学校の間だったそうです。
「あの時、お母さんも僕たちを迎えに、
小学校に向かってくれていたんだ、、、」
胸が熱くなり、涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。
「あの時、電話がつながっていれば、、、」
という想いも強くありましたが、それは、どうしようもないことです。
それからというもの、ただただ悲しくて、毎日、泣いてばかりでした。
でも、母は、向日葵のように明るい性格でしたし、いつも周囲の人を明るく照らすような人でした。
「あんまり泣くと、お母さんがあまりにもかわいそう。」
いつまでもクヨクヨしていると、死んだ母も「申し訳ない」と感じてしまうのではないか、、、。
悲しいけど楽しく生きよう!と思考が変わってきました。
「この出来事は絶対に忘れないが、
あまりにも泣いてるとお母さんがかわいそうだから、
楽しく生きよう!と言う」
と家族で決めて、いつもニコニコ笑って、僕たちは元気だよ!と過ごすようになりました。
母との約束を果たす為にフランスへ
凱旋門の「凱」に、武士の「士」と書いて凱士。
この名前は、若い頃、フランスで凱旋門を見たお父様が「勝鬨(かちどき)を上げる武士のようになって欲しい」と名づけたもの。
そして、津波で亡くなられたお母様の「広い世界を見てほしい」という願いも込められています。
凱士くんは、2013年にSupport Our Kidsのフランス研修に応募しました。
応募理由は、凱旋門を自分の目で見て、震災で亡くなられたお母様との約束を果たすこと。
出発前、当時13歳の凱士くんは、TOKYO FMの番組『LOVE&HOPE』に出演し、こう語っていました。
亡くなった母から、
「絶対にフランスに行って、必ず "凱旋門" をみてきなさい」
と言われていた。
小さいころからそう教えられてきました。
俺の名前、凱士っていうんですけど、
凱旋門の「凱」からきているので、ぜったいに行って来い、
と言われていて。それがようやく叶います。
凱旋門ってテレビとかでみるとめっちゃデッカイんですよ。
俺はその、偉大っていうか、そういう人になりたいんですよ。
アルフレッド・ノーベル的な。俺は3つ取るんですもん。
ノーベル賞を3つ取って、テレビとかに出て、
「あ、こいつ凱士だ」みたいな。
世界中のだれが観ても、「あ、凱士でてるよ」って
言われるような人間になりたいです。
約2週間のフランスでの滞在も佳境に差し掛かった11日目。
凱士くんは、ついに、その時を迎えました。
「マジかよこれ。ヤバイやばい。
まってまって。高すぎるだろこれ。
待って待って。
凱旋門のようになるって言ったけどさ・・・。
いやいやいや。」
予想以上にめっちゃデカくて、世界の中心にあるみたいで。
凱旋門を引っこ抜いたら世界が崩れそうな感じに見えて。
上からみたらエッフェル塔が見えて。
八方に道路がざーっと伸びて。
すっげえインパクトに残っていますね。
でも、なんで自分の名前につけたのかっていうのは
何となくわかったような気がします。
この名前を付けてくれたのがどれだけカッコよくて、
どれだけ名誉のあることだと分かったから、
うちの人に名前を付けてくれてありがとう、
みたいなことを言えたらいいなと思うけど、
恥ずかしいので、そう思っておくだけにしときます。
というのを、ノーベル化学賞のスピーチ、
三回目のノーベル賞で言います。
いま自分の中で変わったのは、自分のためじゃなくて、
自分のためもいいけど、
プラスアルファで他の人にも役に立つような、
不自由な人のためになるような発明をしたいな
と思うようになりました。
人生の分岐点
あれから7年。
21歳になった凱士くんは、当時をこう振り返りました。
僕の人生の中で、大きな分岐点は2つあります。
ひとつは、震災で最愛の母を失ってしまったこと。
もうひとつは、Support Our Kids(SOK)のフランス研修に参加することが出来たことです。SOKから合格通知を頂いた僕は、母のお墓に行き「凱旋門を見てくるよ!」と報告をしました。
そして、実際にフランスを訪れ、自分の名前の由来である凱旋門を見ることができました。あの時の高揚感は、今でもはっきりと覚えています。
パリにある日本大使館で、現地職員の方々に自分達の震災体験をお伝えした後、僕たちは凱旋門に向かいました。大使館から凱旋門まで、真っすぐに伸びる一本道を歩いたのですが、僕はその一本道を、ずっと下を向いて歩き、顔をあげることができませんでした。
やっと凱旋門が見られる!という嬉しい気持ちの反面、少し怖い気持ちもあったからです。凱旋門が見えてくると「凱士!凱士!」と、仲間が僕を呼ぶ声が大きくなって、僕はやっと顔をあげました。
凱旋門を見た瞬間は、すべての言葉を失ってしまい、ただただ圧倒されてしまいました。想像をはるかに上回る大きさの凱旋門は、まるで世界の中心のようでした。
そして、何故父が自分にこの名前をつけたのか。何故、母が、あれほど凱旋門を見なさい、と僕に言ったのか、の意味が分かった気がしました。
人生で一度出会うかどうかの宝箱を少しだけ空けて、夢のひとかけらを食べたような、そんな感覚でした。
石巻に戻るとすぐに、母のお墓に行って報告をしました。
凱旋門は凄かったぞ!
世界の中心だったぞ!
これから頑張るぞ!
感謝の10年
来年で震災から10年を迎えます。
母を失ってから、僕たち家族は泣いてばかりの日々を過ごしていました。
家族で母との想い出の場所に行っても、悲しい想いばかりが込み上げてきて、自然と涙が溢れてきました。
父も、弟も、それは同じでした。
しかし、僕は、凱旋門を見たことで、泣くことをやめました。
すると、自然と、父も弟も泣かなくなりました。
東日本大震災は、最愛の母を失くしてしまった最悪な出来事でしたが、一方で、その苦しみや悲しみを相殺できるくらいの出会いや経験を僕に与えてくれたことも事実です。
この10年を一言で表すならば、僕にとっては、『感謝の10年』です。
Support Our Kidsと僕を変えた9人の仲間
Support Our Kidsで凱旋門を見たことと同じくらい、刺激になったことがあります。
それは、一緒にプログラムに参加した9人の仲間との出会いです。
フランスに向かうために、仙台駅から新幹線に乗ると、僕の席の近くには、同世代の人たちが数名座っていました。
「この人たちと一緒にフランスに行くんだな」
すぐにそれはわかったものの、当時の僕は内向的だったので、初対面に対して緊張してしまい、どのように話したらいいかわかりませんでした。
自分の席で誰とも話さないでいると、新幹線の中では自己紹介が始まりました。
場を盛り上げよう!良い旅にしよう!と、積極的にコミュニケーションを取ろうとしていることが伝わってきました。
東京に着き、半日をかけて研修を受けました。
そこでも、みんなは積極的に自分のこと、震災のこと、将来の夢についてなど、具体的に話をしていて、13才の僕は圧倒されてしまいました。
当時最年少だった僕も、そんな仲間の姿を見て、「自分も積極的にいこう」と意識を変えました。心を拓くと、すぐに皆と仲良くなることができました。
フランスでの日々は、毎日が初対面の連続でした。
当然緊張はしたのですが、仲間たちがやっていたように、辞書を片手に片言の挨拶でコミュニケーションを取ってみたり、「言葉が通じなければスポーツで交流しよう!」と現地の高校生をサッカーに誘ってみたり、今までの自分では想像できないくらい、積極的に行動することができました。
僕が心を拓くと現地のフランス人学生たちも笑顔になって、最終的にはユニフォーム交換することもできました。
“伝えようという気持ち” と “受け取ろうという気持ち” があれば、心を通わせることができる、ということを実感した思い出です。
震災の後の石巻では、「頑張れ!」と言われたり、みんなで「頑張ろう!」と言い合ってはみても、自分も周りも、正直どう頑張って良いのかわからないという状況が続いていました。
そんな時に、どんな状況でも積極的に行動すようとする仲間たちに出会えたことは、僕にとって殻を破るような本当に大きな刺激となったのです。
7年経った今でも、彼らとは交流しています。
フランス滞在中に観戦したル・マン24時間耐久レースに感動して、「将来はエンジニアになる!」と言った先輩が今その夢を実現させていたり、再びフランスに渡って日本語講師の仕事をしている先輩など、今でも積極的な仲間たちから刺激を貰っています。
母のような人になる
そして、僕にも将来の目標が出来ました。
こうやって僕を成長させてくれたSupport Our Kidsのように、「子ども達を助ける仕事に就きたい」と思っています。
僕は、震災の後、たくさんの人たちに支えて頂きました。
支援して下さっている方々にも、つらいことや苦しいこともあったと思いますが、皆さん、苦しい表情を見せずに、僕たちを支えて下さった。
僕は、そういう大人が心からカッコいいと思っています。
そういう人になって、子ども達の笑顔が溢れる社会を創りたいです。
思い起こせば、亡くなった僕の母の周りには、いつもたくさんの子どもたちがいました。いつも子どもたちの笑顔で溢れていました。
僕は年を重ねるごとに、母に近づいているような気がします。
僕の今の目標を言い換えると、「母のようなひとになる!」ということなのだと思います。
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