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#勇気の芸術 11 『承認も形式も、美しさのニュートラルで消えちゃえ。』

「美しい」には、存在するだけ、それだけで価値があるという節がある。

一体「美しい」とは何なのか?
一体なにが「美しい」のか?

キレイと美しいは似ていると思われがち。
キレイは一見、美しさと混同してとらわれがち。

でも本当は「月とすっぽん」ではなく、
土俵が違う。


キレイとは形式上のことであり、
その時代時代でいかようにも
多角的に影響を受けて成立している。
世間体や見栄などが、その定義を決めている。

「美人は飽きる」は言い得て妙だけど、
今これを刷新するのであれば、
「キレイは飽きる」だと思う。

キレイというのはやはり、
自由ではなくなった「知覚」が安心したい場。
誰かによって意図的に作られたことに乗せられているような。


自分自身を生きる現実を土台にしない社会全体の風潮、
命の気焔が上がらないことを誰かのせいにして正当化している雰囲気、
相互監視・相互規制社会から出てきた、必然的偶然の不物。

メディアや公的な発言の場での、
体裁のととのえられたポリコレも同様。
こういった、誰かを傷つけないためだけの忖度をした「キレイ」な言語化には飽きた。

本質を抜いた約束事、
封建日本の絶望的な形式主義の賜物。

そして、
美しさとは誰かが決めたことではなく、
そもそも魂の奥底からの叫びのように、
らしく誰にもマネできないモノ。

美しさは安定はしない。
いつも自分の中が新しい。
だから飽きることは想像し難い。
いつも新しい魂に飽きるこということは想像し難い。

美しさとはきたないモノ、
みっともないモノにも形容できる表現だと思う。
みっともなくたって、みにくくたって、
ただその純粋な存在が愛おしい。


条件付きのキレイを感じることしかできない自分になること、存在そのものが訴えてくる美しさを感じる知覚がなくなるのがコワい。

身震いを起こすような未知と出くわしてパニックを起こす「ぐしゃ」というような感覚すら大切にしたい。

美しさと出会う知覚を喜び続けたい。


そして、これを対人関係にに当てはめてみる。

形式的な、条件付きで人の価値を評価する不純さを知り、やめる。

ただ一人の純粋な存在に嬉々とする。

その「存在」としての自らを探し続ける。

たくさんあちこちに行くというよりは、
その場で、今すぐに邪魔になっているしがらみのようなものを知り、脱ぎ捨てていく。

その「存在」の美しさが、とても単純ということに気づくと、他人の存在も愛おしく見える。

そして、陳腐な承認欲求も形式主義も消えてなくなることを願う。

ここがニュートラル。

「存在」の美しさに気づくことが、
前に進むための勇気のエネルギーを与えてくれる一歩目になる。

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