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#勇気の芸術13 『僕は不安と不満、どちらを選んできたのか』


僕はまだ幼い頃、小学五年生だったころまであいさつのできない勇気のない少年でした。これに対して、いつもお母さんに叱られていた。

街で友だちのお母さんにあったときなど、
あいさつをした方が良いのはわかっているのに、なんだか恥ずかしくて。

恥ずかしいことに加えて、
実は、ちゃんとあいさつできたものなら、
お母さんにしこたま褒められてしまうのが、なんだかむず痒くて気色わるくって出来ずにいました。

その日は夕方頃に、
いつものように遊びたおして帰宅していたのですが、意気揚々としていた勢いのまま、街で友だちのお母さんに出くわしてしまった。

そしてたまたま、そのまま、あいさつをしてしまったのです。

たまたま、そのまま、というと、
何もそこには意識がなかったように聞こえるかもしれませんが、
「ポッ」というくらいの「今だ!」という感覚は結構覚えています。


そうしたらまあ大変で。。



昭和の必殺「連絡網」の力で、あれよあれよという間に話が伝達し、家に報告が入り、帰るや否や僕の成長に喜んでいました。

むず痒いので、褒められたいという欲求はやはりなかったのですが、お母さんが喜んでいる姿を見るのは嬉しかったので、ほんの少しの勇気で人が喜んでくれるんだということに気づいた原体験だと思います。


人が変わるためには、
その人自身しか知らない、
その人だけのスイッチみたいなところに
触れられるか。



少し視点を変えて、

自分から仕事や活動に積極的に取り組めない
「堕落な人」(仮称)も同じことが言えると思う。

そんな人に向けて「しっかりやりなさい」「自分でちゃんと考えなさい」と僕も昔は言っていたけど、それがどれだけ不毛だったかと今は思う。
そんなことを言って、相手を変えようとする愚かさを持ってた。

堕落な人に何を言っても堕落なのは、
その人にとっては、
叱られても、罵声を浴びても、
変わらない方が安心だから。

それは言いがかり?
解釈が優しすぎるのでは?
と思う人もいるかも?


思考の積み重ねって、人が違えば同じということは絶対にない(今のところ、現代ではですが)。
ゼロから条件を同じにして「同じ」をつくろうとしても、その人を再現することもできない。
時代も違うし、その人にとっての恐怖も安心も違うのでムリ。

反対に、
罵声を浴びることが嫌いな自我の強い人、
もっというと変わることの不安を乗り越えるクセの付いている人であれば、そうならないためにすぐにでも変化の一歩をふみ出すかも知れないけど。

「その一歩」をふみだすことが何より怖いという人だっている。
「その一歩」をふみだすくらいなら、不満はあっても罵声を浴びている方が安心、楽、もっというならその人の目的は達成されている。
引きこもりをしている方や、昔で言うグレてしまう方も根本的な気持ちの部分では同じ理由だと思う。

堕落な人に向けて、
「しっかりやりなさい」「自分でちゃんと考えなさい」といって、一方的な愛情を注いでいると、いつの日か暴挙に変わる。
もし、本当に変わって欲しいと望む相手であれば、勇気を与え続ける。

何に対して恐怖を感じているか知りたいのならば、話を聞いてみる。
相手の物語を一緒に旅してみる。
話を聞いている時に相手の物語を奪って、自分が解決してはいけない。
自分の視点で解決策を出した瞬間に、その人だけの物語をごく一般的に、単純にしてしまう。

「しっかり」「ちゃんと」と声を掛ければ掛けるほど、教えてしまえば教えてしまうほど、
殻を破ることに対して、その人なりのいろんな感情を生ませてしまう。 (相手をその状態にしているのは、自分自身でもある。)

解決できるのは本人だけなのに。
だから、相手のタイミングを待つ。

そのうちきっと、一歩踏み出す勇気だけだったということに気づくことを願って。

ときどき詩  その四
~無題~





芸術はみんなのなかにある

形がない なんでもない 
でもたしかにあるなにか

ことばにきめてしまうと 
とたんにどこかにきえてしまったり
反対につよすぎるモノになってしまう

だから芸術なんだ

世界のすみずみにある 
とても大きくてふしぎななにか



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