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ナルコティクス アノニマス Coming Home 「帰郷」の章より


(英文ベーシックテキスト第6版P155~P227)


 この章でメンバーたちは終着点に辿り着き、ついに降伏したときの経験を分かち合いっています。回復を見つけるまでに掛かった道のりは違っていても、彼ら全員が、NAに辿り着いたことはつまり「家に帰る」ことだったと知りました。



リフレクション(回想)                                                   


 自分のアディクションの酷さについて正直な回想するために振り返ってみると、私は人間関係、仕事、尊重、信頼、そして私自身のモラルをすでに失っていた。深いスピリチュアルな混沌(Spiritual Chaos)を経験していた。

 私は「以前感じられていたはずの、すべての楽しみや幸福はいったいどこへ行ってしまったんだ?」と自分自身に問いかけた。

 ある晩、昔使っていたある友人の家に駆け込んだ。驚いたことに彼は薬物から自由になっていた。私たちはしばらく話をして、私はその夜一緒に居させてもらった。彼は私に回復する方法を紹介してくれた。あるNAグループが彼の家から数ブロック先でミーティングをやっていて、私は定期的に出席し始めた。すぐにGSR代理のサービスをやらせて欲しいと頼んで、私の人生は違った方向へ向かっていった。私はもはや道を失った人間ではなくなったのだ。

 私が初めてリハビリ施設に行ったのは20年前だ。それは私が薬物を使ってまもなく後のことだった。ハイになる感覚が好きではなかったのにも関わらず使い続けた。薬物を使っては、もう二度と使わないと言った。私は毎日自殺のことを考えていて、14歳のときショットガンの銃口を口に入れて死のうとしたが、引き金を引くことが出来なかった。15歳のときに、重犯罪の有罪を宣告されて、自分の人生が嫌になっていた。

 私は二年半の間ずっと使い続けた。三回目になるリハビリ施設に居る間やめていていたが、依然として自分の人生が惨めに感じていた。その施設で再びNAを紹介された。そのとき私は生きることに飽きていて、さらに痛みを増長させていた。救いがほしかった。

 私たちはベーシックテキストを読み、このとき私はそのことを信じた。自分の中の痛みから脱出させてくれるように、私を導く道中を歩いていると感じることができるようになっていった。施設を出た日に、直接ミーティングに向かった。彼らは私を愛していると言ってくれて、ここに来続けてほしいといった。そして私はそうした。

 刑務所に居るにも関わらず、そこでの生活は平和で、普通で、有益だった。そして神の恵みによって、私の病気は進行して行った。最後に使ったとき、私は窃盗で逮捕された。自分がアディクトだとわかっていたが、認めようとしなかった。ハイになることが自分の唯一の救いであると感じていたのだけど、だんだん聞き方が悪くなり、いろんな問題を作っていた。今手紙でポンサーと繋がっている。彼は私を勇気付けてくれて、ステップをやるための手助けをしてくれている。私は自分にとってベストな方向へいけるように学んでいる。

 私のアディクションは、話の一節もまともに言葉にならないほど進行していた。精神は壊れてしまって、一日中眠らずにいた。トリートメント施設の中で学んだことに心をひかれた。NAミーティングに行くことだった。私は回復に身を投じて、使わずに再び笑うことや楽しむことを私に教えてくれるスポンサーを見つけた。

 追い出されたトリートメントセンターの前で、私は母のクルマに乗せてもらった。家から一つ前の角に着くまで母は何も話さなかった。母は自動車を寄せて、私を愛しているし、与えられた回復のチャンスを生かして欲しいと私に話した。いままでの人生のなかで毎日のように母をその言葉を使っていたと思う。しかし実際に耳に入ったのはそのときが初めてだった。そして「愛している」という言葉と信じて、私は希望の兆しを感じ取った。

 以前に水曜日に青少年センターで何人かのNAメンバーに会っていて、そこで回復プログラムが利用できることを知っていた。彼らは60年代のヒッピーを思い起こすような変わったグループだった。彼らはミーティングの後によくそこらでハグをしたり話をしていた。しかし私が引っかかったのは、そこで読まれている内容で、アディクションについての話であって、薬物の内容ではなかったことだ。私がナルコティクス アノニマスの回復の場所を見つけたのはそれほど前の話ではない。いまは違いをみつけてイライラするかわりに、共通点を見つけることができる。

 最後に使った日、私はブラックアウトした。そのときクルマをドライブウェイの路肩に止めて、そこのコーヒーテーブルの上に金の入ったバックが置かれていた。そのとき誰かから盗もうと考えていたのだけど、よく覚えていない。ただ内面では終わっていると感じていた。太陽が昇って来るのを見ながら、自分に問いかけた。「もう十分ハイになっているだろう。それじゃこれからどうする?」。

 6ヶ月クリーンの友人から、NAのことは聞いていた、そのミーティングにいってみた。ミーティング場のフロントにいる男に近づいていった。私はナルコティクス アノニマスですか?とたずねると、彼はハグをしてきた。私は「いったい何を考えてんだ?」と思ったのだけど、気分は悪くなかった。そのミーティングの中で多くの話を聞き、そのいくつかは合点がいった。「今日だけ」を読んでいるときに、苦しんだ数年間のことを思い返して、目から涙があふれてきた。人々の多くが幸せそうに見えた。その中で自分が欲しいと思う落ち着きを持った男性に会い、彼は私のスポンサーになることに同意してくれた。NAを見つけることが出来て私は本当にラッキーだと思う。

 私が使うことをやめたとき、解毒の為に6日間入院していた。2、3週間離脱症状で酷く震えていた。以前私は自分の為に処方箋を書いていたので、何度も簡単にアディクションのサイクルに陥っていた。何かがいつもどおり使おうとすることをやめさせてくれた。私は毎日ミーティングに行って、アディクトたちのよい人生を送っている話を分かち合う話を聞くことが好きだった。私は最初の週にスポンサーを見つけて、毎日彼女に電話した。彼女はサービスに参加するように勇気付けてくれて、ステップがうまく行くように助けてくれた。私の脳は最初、ちょっとごちゃ混ぜになっていたけど、彼女はステップがその混乱を整理するためのより良い方法だと感じていた。彼女は正しかった。

 

 NAに初めて来たとき暖かく迎えてもらったのに、僕は不満足だった。すっとその正体不明の集団の中でパニックになっていたのだった。正当化のエキスパートとして、僕は自分がまだ若いのだろうと自分に言い聞かせた。最悪だったことは、自分自身を信じたことだった!僕の病気はさらに二年間進行を続けた。ある日、24時間逃げ回った後に絶望感に襲われて、ベットの棚に置いておいた「若者と回復」のパンフレットを見つけるために家に帰った。それを開いたときに涙が流れ出た。暖かい気持ちを感じた。僕は再びミーティングに行き始めた。新しく聞く言葉、受け入れること、人間性、埋め合わせ、心を開くこと、そしてハイヤーパワー、にひきつけられるようになった。NAのおかげで、僕はついに生きるための方法を学ぶことができ、そしてこれからもずっとたくさんのことを学ばなければならないと理解している。






 彼は刑務所行きを避けるためにトリートメント施設に入ったのですが、そこでベーシックテキストを見つけて、その中に希望を見つけました。彼の出身地であるイリノイ州の田舎ではNAはありませんでした。そこで彼はミーティングを開始して、たくさんの痛みやフェローシップの成長を経験しながらクリーンを続けてきています。(P161~P164)


ミーティングを始めると、

彼らはやって来るだろう                                                            


 私は45歳で、過去に二度刑務所に入っていた。最後の方は所持罪で12年から60年の刑をくらっていた。私は未だに使っていて、みんなを欺きながら通所のトリートメントセンターに通っていて、おれは刑務所にもう行くことはないだろうと思っていた。まあ、それはそれでうまくいった!まやかしは再びうまくいって、保護観察期間も乗り切ることが出来た。もし問題がすべてが薬物検査にパスすることができるかということだけだったら、ただの幸運によって自分の問題は終わっていたはずだった。しかし私は汚い一滴に捕まった。なぜ神は私の祈りに応えてくれないのか?私は薬物検査にパスできますようにと、神に助けを求めていた。このときしっかり人をだまし通さなければならず、結果パスして通所施設に身をおくことができたのだった。もちろんそれを必要とはしていなかったのだが、本気で助けを必要だと考えられるようにと、自分で誓い立てた。

 施設で起こった中で一番のことが、カウンセラーが私にナルコティクス アノニマスのベーシックテキストをくれたことだった。それを読み終わったあと、本をしばらく手から離せないでいた。この本は自分について書かれているように思えた。まずはじめに希望を感じた。ベーシックテキストは自分の道を発見して、新しい人生を築いていくための地図のようなものだ。私は2週間のクリーンしかなかったにもかかわらず、二つの決意をした。NAメンバーになること。そして故郷でミーティングを始めることだった。ベーシックテキストを読んだことから、得られた希望と共に、ナルコティクス アノニマスのミーティングでアディクトがクリーンでなることができると私は本心から信じたのだった。

 私はイリノイ州の小さな町の出身で、川を挟んでもう一つの小さな町があった。そこにはAAフェローシップのためのミーティングがたくさんあったのだが、NAはまったくなかった。私はカウンセラーに、トリートメント施設を出たら家に帰り、NAミーティングを始めようと思っていると話した。彼は、それはうまくいかないだろうから、中間施設にいったほうがよいだろうと言った。しかし私は頑固なので、聞く耳を持たなかった。

 私は6月にクリーンになった。6月の始めの週にトリートメント施設でリラプス(依存症の再発症)していた。そして2000年の7月3日が私たちの初めてのナルコティクス アノニマス・ミーティングを開いた。ゆっくりとしたスタートだった。何ヶ月の間、私たち二人しかいなかったが、続けていた。新しいミーティングができたということが広まって、アイオワからメンバーがアウトリーチ・サービスとして、助けに来てくれた。彼らの一人がステップと伝統の張り紙や、その他の読むためのものを持ってきてくれてた。私はすごく感謝した。このとき初めてNAフェローシップが与えてくれる愛を、心から実感した。

 ミーティングはまったくの偶然で起こったことではなかった。私たちは自分らの痛みを分かち合った。10から15人のアディクトが部屋に集まっている。全員がステップ1で、進む先を示してくれるスポンサーシップの経験もないままだ。話すことは無力やどうにもできなかったことについて!そして私たちは自分らがすべて理解していると思っていた。私たちはあなた方が想像できる、すべての間違いをしでかした。リラプスは普通だった。メンバー間で論争が起きて、聖書やその他NA以外の資料をミーティングに持ち込んだ。それから出会いの場に化したりして、新しい憤りを産み、いらぬリラプスがあった。私にとってもっとも辛かったことは、アディクトの多くが、来てすぐに方向性を示すために私をあてにすることだった。ちくしょう!自分も第一ステップだった。

 思い出してほしい。私たちはイリノイ州の田舎町にいる。シカゴではない。NAコミュニティが確立されている大きなメトロポリタン・エリアは少なくとも60マイル(96km)離れていて、私たちにとっては世界の裏同然だった。もしあなたが他のメンバーと問題を抱えていているなら、それを避けて他のミーティングに出席することもできるだろう。あなたはうまくその憤りを乗り越えるか、またはそのまま居なくなり使うことある。私たちはたった一つのミーティングしかなかった。

 私は、NAを続けて生き残るには、行動しなければいけないことに気がついた。私は町の外のミーティングに出席を始めて、スポンサーをみつけて、助けをもらった。スポンサーシップを与えてくれたことに神に感謝します。私たちが助けを求めたとき、回復中のアディクトたちが経験、強さ、希望を分かち合うためにやって来た。その結果、私たちはより良いプログラムのやり方やNAメッセージの運びかたを学ぶことができた。その後五年間、まだ間違いをしたりしたが、生き残ってより力強くなっていった。過去数年、私たちエリア・サービス・コミティに参加した。毎月他のNAコミュニティに出張していき、いまでは他の町の人たちからより多くの支援を得ている。ホームグループの多くのメンバーたちがより回復の基盤がより安定したものになり、私たちも自分たちが初期の段階で受けとることができたアウトリーチ・サービスと同じことを始めた。その結果、私たちのホームグループから半径30マイル(48km)の範囲で多くのNAグループが存在している。これは自分たちが受け取ったものを、まさに与えていくという、もう一つのすごい経験だ。

 私たちのエリアで年次コンベンションや何度か大きなイベントを開いた。これは小さなNAフェローシップにとって、大いなるNAの一役を担うよい機会なので、私たちはよくアディクト・キャラバンを組んで、「リカバリー・クエスト」をしに出かけていった。自分でも普段気づかないアディクトとの相乗効果は、「個人よりも原理」という一節の大切さを実感させてくれる。家に帰ってから、私は他の人たちとの間に生じた亀裂によりいっそうよく見つめるように努力している。願わくば彼らも私の欠点を許すために学んでいるだろうことを。

 ナルコティクス アノニマスの12ステップは私をよりよい人間になるための内面から変わるように助けてくれる。最もスピリチュアルな経験は、ハイヤーパワーが私を通して他の苦しんでいるアディクトの手助けをするときに感じる。ナルコティクス アノニマスのメンバーとして私が受け取った一番の恵みは、打ちのめされ、怖れ、どうすればよいのか分からず、うまく行くのかと疑いながらニューカマー(新しい仲間)がやって来て、変わろうとする彼らの姿を見ることだ。彼らは降伏して、正直に分かち合いをして、ステップを実践しながら、彼らの瞳に宿る回復の光りを手に入れる。

 NAはイリノイの田舎でも生きている。人を出し抜いていた私にベーシックテキストを貸してくれるという、一役買ってくれたカウンセラーに感謝している。私は新しい考え方、より良い生き方を学んでいて、以前では想像できない生産的な人生を送っている。私はこれを書きながら5年のクリーンいる。そしてホームグループで5年バースデイを祝うピクニックに出かけてきたところだ。私たちのホームグループは通算3,600回のミーティングを行ってきた。今日だけNAを通して、私たちの地域ではたくさんのアディクトがアディクションの発症からの自由を約束された人生を生きている。このことに私はこれから先もずっと感謝していくことだろう。もしあなたがミーティングを始めれば、彼らはやってくるだろう!






 シカゴの南方の“治安の悪い側”のこのアディクトは親友を失い、アディクションをいう病気と強く結びつきました。回復は彼の失ったものを埋めてくれはしなかったが、埋め合わせの援助をしてくれました。(P165~P170)

あの場所


 私のスポンサーは、これは「神の示したこと」のよい例だと言う。これからその話をあなたに話そう。そしてそのように感じるかはあなた自身が決めて欲しい。

 私の親友のママは、私たち二人がつるむことを決してよしとしなかった。彼女は「あの巻き毛の子を連れてこないで」と親友に話していた。私はシカゴの南の“悪い地域”に住んでいた。そして親友は人々が子供にとって安全でより良い生活のために住みたいと願うような地域に住んでいた。しかし彼と私は固い絆があり、お互いに本当の兄弟のように思っていた。

 私はやわな未成年だった17歳のときに軍隊に入った。自分の家の生活は正気を失っていた。半分黒の赤ん坊だった私をドイツの孤児院から養子に拾った家族は、まったくもって機能不全なアルコール問題がある場所だった。私の二番目の継父は酒飲みで意識朦朧の状態で母を叩き、それから母は私を叩いた。ある日、共依存関係特有の散々なことが起こり、私はある結論に達した。これが愛なら決して誰も分かちあうことはしないだろう。この家にこれ以上住むことはできないと。

 私は火曜日に軍の斡旋事務所に歩いていき、日曜日には、ルイジアナ州のフォート・ポークにいた。5ヵ月後オランダのアムステルダムにいて、私はヘロインを注射していた。実はまだ年齢が規定に達していないと話をしてから五ヵ月後、名誉除隊させられた。軍を出されてから毎日のヘロイン癖を続けていくことが難しくなってしまった。

 シカゴに戻り、大学に行くことにした。私の親友はルームメイトになった。1975年の冬はとても寒かった。悪名高いシカゴの風は激しく吹き荒れ、気温は毎日零度を下回った。クリスマス後のある日、私たちは自分たちのアパートで寒さをしのぐためにコートを羽織りながらテレビを見て、大麻を吸っていた。温暖な太陽が照らすカルフォルニアビーチのシーンが画面に映し出され、美女がメルセデス・ベンツのコンパーチブルを運転していた。私は部屋の窓の外を見た。それからまたテレビを見て、友人に「もうこの天気にはうんざりだ。おれはカルフォルニアにいくよ」と話した。彼は速やかにそれに同意して、私たちはシカゴを離れて、週末には温暖な気候を約束してくれるカルフォルニアに向かっていた。私たちはサンフランシスコに到着したが、一月の気温は低く、じめじめして、風が吹いていた。まるでテレビ番組で見たことと違っていて、ほとんどシカゴと変わらなかった。これはもしや失敗したかもしれないと私たちは思った。

 それにもかかわらず、私たちはがんばって新しい生活を始めた。彼は大学に行き、大卒の仕事をしようと決心した。私はアンダーグランドな薬物のかかわる巨大な世界に傾倒していくことに決めた。私の人生はNAの文献での記述「使うために生き、生きるために使う」の通りになっていった。私は刑務所を出たり入ったりして、友人は勉強を続けていた。彼は素敵でしっかりしたガールフレンドをつかまえていた。私にも恋人がいて、彼女はぜんぜんしっかりしてはいなかった。彼女は私と一緒に薬を使う仲で、ともにアディクションを派手にふりかざしていた。

 1982年、息子が生まれた。彼は私の祈りの答えだった。養子になってから、私は自分の血縁のある人を一人も知っていなかった。私はよいお父さんになりたいと思っていたが、アディクションがどの人間になることも許さなかった。私は何よりもまず使う必要があり、それは毎日のことで、どんな代償であっても必要だった。息子が部屋に歩いてやってきたときに、私は腕にきつくベルトを締めている自分に罪悪感を抱いていたのを覚えている。また息子が眠りに落ちそうになりながら、バスルームでラリっている私がドアから出てくるのを待っていることもあった。彼にとって私が世界のすべてであり、いま話したことが私ができることのすべてだった。

 ある日、友人が手に入れてハイになるために電話をしてきた。彼はクローゼット・アディクトだった。彼は昼間はしっかりした社会人をうまく装っていた。そして機会があれば、夜になると私のいるダークサイドな世界にやってきて使っていた。そのときストリートにはたくさんの麻薬があって、オーバードーズしている人々が転がっていた。自分たちの分の覆い隠しているバックがあった。私たちは二人とも打って、どちらも意識を失った。私は目覚め、友人の方をみると彼はまだ意識がなかった。私は彼の意識を取り戻そうと試してみたが、駄目だった。私はロビーにふらつきながら出て行き、911に電話してくれと誰かに頼んだ。救急車がやってきて彼を病院へ運んで行った。

 彼らは彼をゴミ袋を出すかのように彼を持ち運んだ。彼らはたくさんのアディクトを見てきていて、おそらく情を感じる感性をなくなってしまっていたのだと思う。うんざりした様子の警官がやってきて、私に一緒に来るかどうか尋ねた。私はしばらくここに残ると言った。私は部屋に戻り、再びもう一発を打った。これが私の病気の狂気だ。私は7時間後に、腕に注射針が刺さったまま目覚めた。

 病院へ友人を連れ出すために行かなければいかないことを思い出した。病院のロビーに電話をかけて、どの部屋に彼がいるのかを尋ねたとき、彼が亡くなったことを告げられた。私は信じられなかった。愛していた友は死んでしまった。自分のルールの中で彼の死に対して、ものすごく悪いことしたと罪悪感を感じた。神が私のかわりに彼をあの世に連れて行ってしまったことが理解できなかった。実際、神は私に助けの手を伸ばし、彼を間違って死なせたと私は考えていた。私は途方にくれていた。友の恋人に電話をして伝えると、電話越しに彼女の叫び声を聞こえた。

 私のアディクションはより自殺的になっていった。どの時もオーバードースしていて、目覚めたときはいつも絶望感に襲われた。通りを歩く人たちには、どれだけ私が沈みこんでしまっているか誰にもわからない。私のすることは使うことだけだった。どんなに使っても痛みが消えることはなかった。そして違う方法があることを私は知らなかった。私のようなアディクトがクリーンになる方法を知らなかった。サンフランシスコのテンダーオリン(悪徳歓楽街)に12ステップを持ってやってくる者はいなかった。私にはナルコティクス アノニマスの知り合いは一人もいなかった。

 ある朝私はサンフランシスコ港の船着場に座っていた。午前5時30分だった。3歳になる息子は後部座席に座っていて、母親は前座席に座っていた。息子は私に何か食べるものがないかとねだっていた。一晩中私はヘロインとコカインを混ぜたスピードボールをやっていた。一発がもっとたくさんの使うための金が必要になることはわかっていた。彼女は私たちが壊れてしまっていることに気づいていなかった。その日使い始めてから、600ドルも費やしていた。私は腕にベルトを巻き、リアミラーを見つめた。振り返って息子に言った。腕に打っているときは、見ないという約束があったからだった。彼は私を見てにっこり笑った。私は再びミラーの中の自分自身をみると、ことわざでいう「明快の瞬間」があった。

 自分がどうなってしまったのか分かったのだった。私の歯と目は黄色で、顔は崩れてしまっていて、腕には全体にわたって注射したあとが腫れていて、ジーンズは血がつき、首のまわりは偽の金のネックレスをつけていたために緑色に変色していた。私はめちゃくちゃになっていた。それからまた息子の方をみた。彼は笑いながら私の様子をうかがうように見た。そして私は気がついた。このまま使い続ければ、彼はチャンスを得ることはないだろう。彼にクルマの運転の仕方や、野球の遊び方、ネクタイの結び方、ダンスパーティに出る準備をすること、バイクの乗りかたなどを教えることは決してないだろうと。私は自分の人生さえもどうでもよくなっていたが、息子の人生までも否定してしまうことはフェアじゃないと理解した。私は息子のママのほうを見ると、彼女はどこだろうが私にずっとついて来ていて、自分が彼女をまっさかさまに地獄へと引き連れてきてしまっているのだと気がついた。それからどの回復中のアディクトにも同じようなことが起こると私は思うのだけど、まさにそれが私の身にも起きた。「神さま助けてください」。私は泣きだした。このとき偽りなくやめるために自分のハイヤーパワーに助けを求める初めての瞬間だった。私は数年間やめたいと思っていたが、どうすればいいのかわからなかった。助けを求めて泣いたことで、すぐさまやめる方法を知ることにはつながらなかった。私はクスリを処分して、金を手に入れて使いたいと泣く彼女を説得した。

 いまの私には神がもたらしたタイムラグは、神が拒否したわけではないと理解している。私はまた逮捕されて、刑務所へ送られた。刑務所行きはトリートメント施設に行くことになった。そこでの軍のように決まった割り当ての生活をした短い期間中に、ベテラン用のプログラムを与えられた。そこでナルコティクス アノニマスを紹介された。私はH&I(病院と施設)ミーティングに心から感謝している。そこで知ったおかげで、アディクト人生から救われたのだから。

 私が行った最初のナルコティクス アノニマスのミーティングはマイホームだと感じられた。そこで回復中のアディクトたちに会った。私はアディクションから解放された生活することが可能だと理解した。どこで希望をなくしていたとしても、私は希望をもらえる。私は助けがなくて困っていても、道具がある。独りになってしまうときに、家族が与えられた。私は違う人生を歩むチャンスがもてる可能性を感じて興奮した。スポンサーをみつけて、彼は何があっても私を愛しているといってくれた。彼はこの19年間ずっとたった一人のスポンサーだ。そして何が起ころうが私に愛情を送ってくれている。私はクリーン2年のときに、息子の親権を得た。彼にバイクの乗り方を教えて、子供のスカウト集会に行き、実際に運転をしたり、ネクタイの結び方も教えることができた。彼のママは使い続けることを選び、今ももがき苦しんでいる。

 クリーン3年の時のことを振り返ると、私を養子にした母についての棚卸をしていた。彼女は私がアディクションの渦中にいたときに死んでいた。私は母の葬式にさえ出なかったことにとても憤慨していた。自分の棚卸の流れのなかで、自分のあまりある憤りが本当に傷つけていたということを理解した。私は傷つくことよりも怒るほうが簡単だということを発見した。私はうめ合わせの手紙を書き、シカゴにいって彼女の墓の前で読み上げた。

 墓地に行く前に、私たちが「あの場所」と呼んでいたミシガン湖の小さな岸に止まった。私はそこに座り、手紙を書いて、湖に入り泳いだ。そのとき私が回復を始めてから初めて落ち着きを感じた。緊迫した心の声はすっかり頭から消えていき、すべてを包むような平和と落ち着きの感覚が得られた。私は一日中そこで日の光と新しく見つけた平安を感じながら過ごした。あの場所で感じたことは以前なかったようなインパクトがあった。そこを離れて運転しながら、友人の家が近くにあったことに気がついた。何かが私に彼の家に行き、彼の母に会えといってきた。彼の葬式以来ずっと会っていなかった。その時の彼女は私の顔を見るのも耐えられないという感じだった。彼女に自分がクリーンになり、すまないと思っていることを伝えたかった。ドアベルを鳴らしたけれど、誰も返事はなかった。私は自分の名刺に短いメモを書いた。私はサブスタンス・アビューズ・カウンセラーの仕事を始めていた。メモには、「親愛なるミセスCさま。私がナルコティクス アノニマスのメンバーになってからの三年間、クリーンになったことをただ伝えたかったのです。私はクリーンなるためにほかの人たちの手助けをしています。起きてしまったことを本当にすまなかったと思っています。そして彼のことをいまもよく思い出します。愛をこめて・・・」。私はドアの郵便箱にそのメモを入れて、自分のクルマに戻った。

 クルマを出す前に、男性がドアを開けて戻ってくるように言ってきた。彼は彼女の新しい夫で、私のことを知らなかった。彼は私を家に招いてソファに座るように言った。しばらくしてから親友のママが部屋に歩いて来て、私をみるとショックを受けた様子だった。夫は彼女にカードを渡すと、静かに彼女はそれを読んだ。それから彼女はすすり泣きを始めて、彼女は腕を伸ばし私とハグをしてお互いに泣いた。彼女は、息子が母がどれだけ愛していたかを知ったらどう思うだろう?とたずねてきて、私は彼は確かに彼女同じだけ愛していたことを伝えた。彼女は息子のアディクションのことでずっと私を責めていたかけど、彼自身がずっとアディクトの特徴を備えていたのだから、あなたのせいではないといった。彼女は彼の死のあと、何か良いことがやってきていま幸せだと言っていた。それから私たちは昔いた地下アパートへ行き、彼女は私に写真をくれて、彼の息子である友人の物語を語った。私たちは笑い、泣き、ハグをした。それはありえない癒しのできごとだった。私たちはさよならを言って、彼女は「行ってしまうまえに、是非あの場所へ行ってみてちょうだい。そこは私たちが息子の遺灰をまいた場所だから」と言った。私は再び泣いた。それが私の最初のナルコティクス アノニマスのいうスピリチュアルな目覚めだと気がついたからだった。

 今日私の人生はギフトだ。20年のクリーンになる。14年前に結婚して、今ではもう一人の違う息子がいる。十年前私はドイツの生みの母に会いに行き、それ以来血縁のある家族でいてくれている。私の心は目覚めさせられて、人を愛すること、愛されることを学んでいる。私はトリートメント施設で18年間働いていて、アフリカンアメリカン人のための本と二冊書いた。

 たった今ハワイで開かれたNAの31回目のワールド・コンベンションから帰ってきたばかりだ。そこでこのプログラムによってどれだけ多くのアディクトたちが世界中で変わっていっているのかを思い出させてくれた。

 心の底からありがとう、NA。







二人は一緒に使い、そして一緒にクリーンになったが、このアディクトは積極的にプログラムにかかわり、彼の兄はしなかった。このサウジアラビア人のメンバーにとって兄の死が、メッセージを運ぶ原動力になっています。(P171~P175)


メッセージを運ぶ   


 サウジアラビアでは、使うことはアディクトや家族にとって恥を意味する。他人が家族に息子や父親が使っていると教えたとしても、使っている本人よりも強く否定をする。私たちの家族の場合、一人でなく二人の息子にそれをしなければならなかった。実際のところ家族は、もはや私たち兄弟二人についてそれ以上否定することができなくなっていた。私はナルコティクス アノニマスに助けを見つけてが、兄はそうしなかった。

 私たちの家族はいつも不安定で、実際両親は離婚した。父と母が離婚する前のころ、私は使うための時間や理由や使うために必要ななんでもよいすべてを探した。私は真昼に酒を飲むかまたは友人とタバコを吸うために、学校を離れた。私のアディクションは処方薬とたまにアルコールで始まった。数年過ぎて、ハシシュになり、高校を修了できなかった。

 サウジアラビアではストリートで薬物を買うことができるが、特別なエリアに限定される。ムスリムの国ではアルコールは許されていないのだが、ある特定の建物の中で違法に作られている。ときどきウィスキーや何かが、外の物価が高い場所から持ち込まれてくる。その地域のなかで自分の自尊心を見つけた。そこで薬物を使うために集まる人たちと一緒にサークルを形成していた。そのグループに属することがもっとも重要なことになったとき、すぐにコントロールが効かなくなっていった。私たち全員が周囲の圧力に対して、あまりにも弱かった。

 最初、兄がヘロインを使っていて、私はハシシュだったが、兄がヘロインと使っていることに、私はうろたえた。自分たちの宗教にとってとても重要な休日のラマダンの後日、友人のところを訪れた。私たちは以前一緒にハシシュを吸っていたのだが、このとき彼らはヘロインを使っていた。私がそこで言ったことは「おい、なにか新しいものがあるのか?」。そして私のアディクションが進行して、兄と同じくヘロインを売っている場所が自分の居場所になった。売人は「ついにあんたにここで会えた!」と言っていた。

 最初の短い期間、少しだけの量で自分のアディクションをコントロールしようとがんばった。それが頭の中にあるすべてになった。自分が考えることといえば、今日はどうやって手にするか、明日の分をどうやってみつけるかだけだった。私は自分の仕事や家族をほったらかしにし始めた。使うためだけに金を費やすことになり、それがすべてになった。使うことが生活活動することのすべてで、自分を見失い、健康も失った。家族から家を出るように言われた。父の家に移って、新しく薬物を手に入れるための場所を見つけた。

 家族から薬物をやめるように言われて、私はそうすると約束したが、無理だった。私の病気はより強くなった。家族は私を友人から切り離すために、隔離しようとした。私は彼らと話してそうしようとしたが、嘘をつき、言い訳を見つけて、彼らと会おうとした。薬物を手に入れるために、兄弟の財布から金を盗り、同僚からは金をだましとるようになった。私は愛するものを傷つけてしまっていたが、やめることができなかった。私の人生は退廃していった。私は自分が見捨てられ拒否されたように感じて、これがさらに自分を傷つけて、奪っていった。

 実際に、病院にいったのは家族と仕事先のプレッシャーからだった。私は仕事をときどき休むようになっていて、彼らをその原因を知ったので私を病院に行かせたのだった。そのとき自分の体が病気になってしまっているために、使うことがやめられないということをはじめて知った。みんながジョイントの痛み、吐き気について話していた。彼らは薬物がもはや使えなくなっているのだと理解した。

 私は病院から出てすぐに使った。みんな私にお手上げだった。そして私は自分自身に降参した。しかし私の神に対する祈りは、それが薬物が効いているときであっても、効果があった。私は自分の意向で再び入院した。薬物が自分の役に立っていないと感じていた。病院や施設のためのNAコミティが出張でやってきて病院内で開いていたミーティングに出るように勧められた。

 そのなかのスピーカーのうちの一人が、以前薬物を手に入れていた人だった。ミーティングが終わった後に、私は彼に駆け寄っていき、どうやったらずっとクリーンを続けているのかを教えてほしいと頼んだ。その答えはNAプログラムを通して得られると彼は言った。私が病院から退院したら、一緒にNAミーティングに行こうと言ってくれた。病院から離れる日、彼はまず最初に私の家族のところに一緒に行ってくれて、それからミーティングに向かった。ミーティングについたとき、最初他のみんなに拒絶されているように感じていたので、歓迎されたときは仰天した。他のメンバーたちの病気や苦しみが自分に似ていることに驚き、メンバーたちのクリーンタイムもさまざまなことにも驚いた。ミーティングの最中、本心から彼らのようになりたいとお願いしていた。答えはイエスだった。私は彼らのようになり、4ヶ月間彼らと共にいた。

 4ヶ月過ぎた後、自分の状態を診てもらうために医師の予約をした。あらかじめスポンサーに話をつけて、自分の健康状態がよくなってきたことを説明してきたらどうだといった。医師は私に不眠で困っていないかとたずねた。私の病気が表面化して、眠りに落ちる前に長い時間がかかり困っていると医師に不満を話した。医師は薬を処方してくれた。その数時間以内にその処方薬と他の薬物と一緒に使い、再びリラプスを始めていた。2,3ヶ月以内に、同じ底を突いた。以前よりもさらに悪化して。私はスポンサーに助けを求めて、彼は一緒に病院へ行こうと私にいこうといった。私は同意して、最後にフェローシップに再び参加するようになった。

 私の兄は同じ病院にたどり着いていて、一緒にクリーンになった。私は自分のためのことをやり、兄は仕事を二つ掛け持ちしていた。彼は時間の多くを仕事に費やしていた。彼はNAで働かなかった。私は毎日NAにいき、サービスに参加した。私は入院していた病院へ、メッセージを届けにきていた男性にスポンサーになってほしいと頼んだ。そのスポンサーは入院中も病院から私を連れ出して、一緒にNAに参加した。私の兄は人生を通してそういう人がいなかった。私のスポンサーは私が出会ったときに、すでに三年以上もそうやって来ていた。私が病院でスポンサーに出会った瞬間から、彼の近くに居続けた。兄は誰にも近寄ろうとはせず、人生を浪費するようになっていった。

 兄はクリーンではなくなった。私は彼を助けようと努力してみた。彼に話をしたが、兄の心を開くことはできなかった。兄はクリーンになると約束してくれたけれど、それが実行されないことを私は知っていた。私たち兄弟の妻たちが私をたずねてやって来たとき、彼は使っていた。自分が助けるために説得してもうまくいかないと考えて、友人たちに兄を話してほしいと頼んだ。私は彼と話をすると緊張してしまうので、家族でない人のほうがリラックスできるだろうと考えた。兄が最後に病院にいったとき、アムラー(イスラムの小さな巡礼儀式)に行っていて、調子が良さそうにみえた。それから彼に二度と会うことはなかった。

 私は家族とみんなと共に、リラプスして死んだ兄を見つけた。私は「何度もあなたを助けようとしたのに、病気の力のほうが強かったことがわかった」と彼に話した。彼を助けることができなかったことがとても悲しかった。この出来事が私の回復に力強く推し進めてくれて、私がスポンサーをするとき、そしてメッセージを運ぶときに人々を手助けする力になってくれた。

 兄をアディクションの病気で亡くしてから、二年がたった。私が運ぶメッセージは、私と兄は一緒に薬物を使い、彼は私と一緒に使うのを7年間やめていたが、彼は個人的生活に費やすために、ミーティングに定期的に行かなかった。彼はミーティングやステップ抜きで、きつい自分のコンディションに直面していた。彼が自分自身をあきらめていても、NAの仲間は彼を見捨てはしなかった。彼はリラプスすることも切り上げて、最後のリラプスで自分の人生のチャンスにも見切りをつけた。それが最後の一回で、彼の前に他の人たちに起こったように、彼は死んだ。それが私たちの病気の結末だ。

 私たちはアディクトを回復に乗せることはできないことを知っている。私たちはアディクションの病気で苦しんでいるアディクトにメッセージを伝えることだけができる。彼が私たちにNAフェローシップの道を示してくれたことを神に感謝している。今日―神に感謝―スポンサーの助けによって私は11年間クリーンでいる。私は兄の死を通してクリーンでいる。私は兄を失った痛みのおかげで、他の人々を手助することができている。私は仕事、家族を持っており、それを誇りに思っている。もはや恥を感じて生きる必要はない。今日、以前に薬物の中に見つけようとしていたもの、自分の家族やNAの友人たちとのつながりを見つけた。今日私たちがサウジアラビアで運ぶメッセージはアディクションは恥るものでも閥が悪いものでもない。私たちの運ぶメッセージはどんなアディクトでも薬物をやめて、使いたい欲求もなくなり、そして新しい生き方を見出せる、というものだ。今日、サウジアラビアにも回復中のアディクトがいる。ありがとう、NA。







 彼女はまだ16歳だったときにNAを見つけた。その最初のミーティングから、NAが自分の必要な居場所だと知りました。いま20年以上が経過して、彼女はかつて人に対する敵対心をもち、時間を無駄に過ごしていた10代の少女から、このプログラムの感謝を持ったメンバーとなっています。(P176~P178)

若いアディクト、若いNAフェローシップが一緒になって成長する


 どんなアディクトもNAで回復を見出せることができる・・・南フロリダの小島にいた14歳の田舎の少女でも。30歳代の人たちと一緒にコーヒーの飲み方を学び、必死になって一緒にがんばっていた。なぜなら彼女は回復とは彼らの力のおかげだと知っていたから。彼らが少女に言い寄ってきたり、クリーンになるには若すぎるとからかったり、または若くしてクリーンになれてなんて運がいいんだ、といってきたりしたときも、それで彼女がそれで本当のつらさを味わう必要はなかった。彼女はただ過去のことで苦しんでいた。性虐待、薬物のオーバードーズ、セックスの乱用、逮捕、暴力、孤独、罪悪、被害妄想。彼女が痛いほどいいたかったことは、彼らの目には「自分らと違う」(若すぎる)と映っていたとしても、ホームレスのジャンキーたちや、他のどの人たちの痛みと同じように自分も荒廃しきっている、ということ。彼女はそれから脱出したかった。そして助けを求めた。NAのメンバーの中には、彼女はアディクトになるには若すぎるという人もいた。他の人たちは彼女を避けたか、相手にしなかった。幸運にも、彼女に声をかけてくれる人が居て、ナルコティクス アノニマスの席を得ることができた。そして居続けて、戦っていた。

 私ははじめて回復のメッセージを聞いたときのことを覚えている。高校一年の英語の授業を知らせる開始のベルがなる前に時間をつぶしていた。私はその日歩いていくと、何かが違うと感じていた。クラスが静まっていて、何人かの女が先生と話をしていた。

 私は自分の一番後ろの角の席へむかった。他の生徒たちはふだんの敵対的な態度でいる私に対して、拒否していた。先生がある女性を紹介しようとしていたとき、私はサングラスの後ろで流れる汗を拭いていた。訪問者はむかしドラッグアディクトだった人で、その日彼女の薬物プログラムを話すために来ていた。私が彼女に、何かドラッグを持ってきてくれたのかと聞くと、近くにいたほかの生徒がやめさせようとした。

 彼女は自分の子供時代のことを話し始めると、私は神を丸めて口につめて、彼女の方に吹き飛ばした。誰かが宿題の紙を丸めて彼女が逮捕され薬物をオーバードースした話をしたあたりで投げつけた。私は嘲笑って、不快感や侮辱を与えてやれとみんなをあおった。

 話しているあいだ彼女はずっとなじられていたが、彼女の声は落ち着いていてしっかりしていた。私は見た目はまったく関心を見せないのにも関わらず、私は彼女のひとつひとつの言葉をちゃんと聞いていた。

 私はすでにそのときやめたかったし、試していたし、薬物をやめると約束していたけれど、いつも失敗に終わっていた。ありえないくらい感服するような二人の兄と愛すべき両親というすばらしい家族がいた。彼らとの距離感はいつも崩壊していて、いつもその距離を縮めることができなかった。

 次の日に、二人のクリーンな友人がやってきた。彼らは以前から何度も私を落ち着かせてクリーンになるようにと助けようとしてくれていて、私を教室から家に届けてくれたり、やめるように懇願して、薬物を私から奪って、密告するとおどしたりした。彼らは次の授業を飛ばして、誰かに会いにいこうと私を誘った。そこに行ってみると、あの女性がいた―私をひきつけ、同時に恐ろしさを感じさせる話をしていた人が。

 そこを離れるまえに、彼女は私をナルコティクス アノニマスのミーティングに連れて行きたいといっていた。彼女は後になって私を満足させてくれる言葉をそのとき発した。「もう決して使う必要はない、今日だけは」。

 最初にでたミーティングの最後に、手に無地のポーカーで使うようなホワイトチップを持ちながら、その部屋の正面出口に居ながら自分自身を見つけた。後になって、その無地のホワイトチップが私たちの降伏と人生をふいにしかねない、自分自身を賭けたギャンブルをしていたことを思い出させてくれるためのシンボルだということを知った。奇妙な感覚と17歳という年齢、そしてNAのことを何も知らないのだけど、私は永続的に自分の人生を変えるものを見つけたことを感じていた!いくつかの理由から自分は大丈夫、もう助けを得たのだと思った。

 そういうふうに私の回復の旅が始まり、過去に想像もしなかったような場所へと私を導いてくれた。時間がたつにつれて、私は伝統とNAのサービス機構について学んでいった。はじめのころ、私は今日一日、電話をかけ、ニューカマーを歓迎して、文献を持っていって、テーブルや椅子を並べて、コーヒーを煎れて、ゴミを持ち帰り、ミーティングで使わせてもらう公共施設を掃除する、そういったサービスをする喜びを知らなかった。

 他の“ただ時間を過ごしていってるだけ”と考えているほかの友人たちの誘惑にも関わらず、スポンサーを得たいというやる気を神が祝福してくださり、その関係を築いていくことができた。たくさんの女性をスポンサーとしてやっていくときに、自分には人に与えるような価値あるものがないと思っていて、そしてスポンサーシップとは他の誰かに与えることで自分に自由が得られるから、皆がやる気をもってやっている、ということがわからなかった。

 いまの私は本気で回復を求めた結果の贈り物のおかげだと思う。私は“勝者”たちの話を聞き、近くに居るようにした。私はスポンサーの提言を信じて、シカゴのワールドコンベンションに出て、世界中の回復中のアディクトたちと会って分かち合いをした。彼らの多くがいまもクリーンでいる。そして彼らが自分の兄弟、姉妹だと思っている。また私が愛していたアディクトたちも多く死んでいった。

 教室で話を分かち合ってくれたあの女性が、クリーン三年目のある日にリラプスして、オーバードーズで死んでしまうことを私はまだ知らなかった。また彼女が始めたグループで私はクリーン20年のメダルをもらうことも、ホームグループになることも知らなかった。自分自身が若いうちにNAをつかんだというだけでなく、NA自体がまた若い時代につかむことができたという、すばらしい幸運に気がついていなかった。

 私の体の中心にNAメッセージがあることを信じている。回復の贈り物だけでなく、回復の中で恐れおののくような事態に直面することからもそれを感じることができる。ひとりぼっちで生きていたくないと思うような怖い時間に、もう耐えられないと思えるときもあるけど、神と12のステップ、そして他の回復中のアディクトたちが私の背中を押し出してくれて、クリーンでいる!

 もがきながら生きているどの日も、毎日私の心の中にあるナルコティクス アノニマスのメッセージは、あの女性が勇気をもって高校の教室で分かち合ってくれた物語を聞いた最初から、いまもまだしっかりと存在している。

 「どんなアディクトも薬物を使うことをやめ、使いたい欲求もなくなり、新しい生き方を見出せる」







 彼が使うことをやめる最後、ほかのストリートの少年たちや売人でさえ彼を必要としていなかったにも関わらず、最初にミーティングにでたときからNAが自分の家に居るような気分になれた。時々ミーティングルームでただ一人過ごすときもあるが、このケニヤのアディクトは気持ちを新たに回復のためにコミットしている。(P179~P183)

静かな満足感 

                                            

 東アフリカ、ケニア、ナイロビのストリート。私はアディクションの進行していくに従って、名前を変えていった。使っていた最後の名は「サングラスをしたジャンキー」だった。

 ナイロビのゲットー(少数民族地区)で生まれた私は、早い年代のうちに薬物、犯罪、売春、レイプ、そして人の死という現実を知った。それがスラムでの出来事の一面だった。母は私が10歳の時にどこかへと消えて、妹は孤児院に送られた。幸運にも私は、ノルウェイから来た日曜学校の宣教師に拾われた。

 私はその地区で最良の高校に行くことができて、そこは規律が厳しいと評判の学校だった。学業成績はよかった。スポーツに長けていて、フットボールチームのキャプテンをしていた。大学では国の代表選手となり、「スポーツマン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれた。そこには生きるためのすべてがあった。ゲットー生まれの少年の将来は明るく見えていた。

 私は大学時代に酒を飲み、タバコを吸い始めた。喫煙によって激しい喘息の症状が現れて、すぐにフットボールをできなくなってしまった。それを避けるために、度を越して飲酒するようになった。大好きなスポーツを私から奪った神を呪った。実際自分に勧められた薬物はすべて手にした。私はしたから二番目の成績で卒業した。そして癖になっていった。

 卒業後に調剤会社に入社して、私のアディクションは急加速した。アディクトとクスリ屋の鍵とはなんという組み合わせだろう!私は2,3週間ヘロインを使って、そのあと体から会社から取った薬物を抜くことをしていた。驚くことではないだろうが、上司は私をくびにした。

 私の個人的な人間関係もまたこじれていった。披露宴の3週間前に結婚式をキャンセルしたとき、私の資産は破産していた。彼女にとって、そのまま町を出て行ったことは幸運だっただろう。私たちにはかわいい子供がすでにそのときいて、ずっとこの状況下に彼はおかれていた。私はルーズなジャンキーだった。ヘロインがその操縦レバーを握っていた。

 医師や精神科医のもとへ行くようになった。医師は「あなたは最終的にはストリートでオーバードーズして死ぬだろう。うまく切り抜けた人は誰もいない」といった。そして私は末期の薬物使用になってしまっていると感じていた。

 そのよい医師の予言どおり、その年内はストリートで躍起になっていた。友人や同僚をだましていた。定期的に遠くの町に引っ越して、その清算した。実際ナイロビに戻ったときには、私の足はジョイントを吸うためにゾンビのようになっていて、街角のある一角へと舞い戻っていた。その時期はネタを狂って狂いまくった目でみていた。あるとき誰かの血管を探す手伝いをしていて、彼がオーバードーズして意識が失っている間に、彼のポケットから盗んでいた。そのあと駆け足で同じネタを買った。使ったのが何だろうが、とにかくよかった。

 ストリートの少年たちの中で暮らしていて、彼らがお互いを傷つけあうのを見ていた。私は何も感じなかった。私は薬物が抜けてくると人にねだって、「街のカス」と呼ばれている人でさえ、私を避けた。世界から見放されていて、使っている仲間たちも同じだった。売人は打っている人を嫌うようになった。入り口ドア付近で誰かに死んでもらってほしくはないからだ。彼らの仕事に差し支える。

 幸運にも、盗みがうまくできなかった。それのおかげで刑務所に行かずにすんだ。薬物を買う金もなく、盗む方法も知らないことが、私のやる気を方向を変えることになった。気力やセルフヘルプブックや神の信仰、そして地域を変えたりして、少しの間はクリーンで居られるようになっていったが、実際には使っていない状態の苦痛がアディクションからの開放の自由を見つける利益につながった。私は老婆の医師のところへ行き、彼らの努力を示す胸のマークをつけられた。それはうまくいかなかった。

 以前に一緒に使っていたある男を会ったとき、私は3ヶ月間ヘロインから離れていた。彼はクリーンな様子だった。彼が何をしたかを知りたかった。彼は私をナルコティクス アノニマスのミーティングに連れて行ってくれた。直感が、おまえはついに必要な助けを見つけることができたんだ、と私に語った。そのミーティングのなかに、以前いっしょに使っていた人も何人かいた。私は自分でコーヒーを作りながら、ここは自分の家なのだとわかった。自分も回復が可能なのだと信じられるようにクリーンなるのだと思った。

 ミーティングの後、何度も部屋を出たり入ったりしていて、自分には選択肢があるのだとわかった。自分の薬物の問題の解決方法がこの部屋の中にあると知って、NAが回復の希望になった。私は今までこの事実を決して疑ったことはない。

 私はいま三年クリーンでいる。この三年間自分と同じようにしながらさまよい歩く人たちを見ながら、彼らが戻り続けるこの場所もまた変わっていく様もずっと見てきた。この変化を目撃することができることも回復の中の大きな贈り物になっている。

 ケニアでもミーティングはメンバー数でもクリーンタイムの年数も少ない。ミーティングの平均の参加者数は4,5人だ。そのほとんどがクリーン一年未満だ。英語が話せない人もいて言語の壁がある。最近は、一般にNAが知られ始めて、NAも増え始めている。新しいミーティングがモンバサ、マリンジ、そして湾岸沿いのいつくかの町で始まっている。フェローシップのなかでいくつかの争いがあって、私がグループの成長のために分割することが大事だと話した。もっとうまくやれたかもしれないことを認めている。しかしながら、しっかりと進歩が現れている。笑い声を聞き、ミーティングが成長しているのがわかる。しかし時々ミーティングが私一人きりの時もあったりしてなかなか難しい。

 個人的に、誰も姿を見せない静かなNAミーティングを私は楽しんでいる。部屋に一人自分自身を見出して、いつもコミットメントを新たにしている。ほとんどの場合は最低4人のメンバーでミーティングが行われている(たまに20人のときも)。

 ここのフェローシップの中には強い友情が存在している。私たちはバースディのケーキをつくり、調和の取れた関係が持てている。私たちアディクトは互いに本当は現実的な人間だということを知っている。ミーティングの後には笑い声がある。私の携帯電話はまるでNAの電話帳のように使える。ボーリングや映画やディナーに一緒にいく。最近だと新しいNAの友人の一人がスキューバダイブやジェットスキー、パラセイルを教えてくれた。こんなことが楽しんでできるようになるとは想像できなかった。私の友人たち、真の友達がNAの中にいる。

 サービスは私の回復の基礎だ。友人は私のやっていることを過小評価するが、私はサービスについて懸念を感じている。私は人間性をもったサービスをするように努力している。サービスの喜びと他に比べるものがない。NAウェイを分かちあうこと、テーブルを並べ、ミーティングに出席して、お互いにメンバーとつながり、NAの本や文献を持っていき、ケニアを訪れた人たちを手紙をやり取りして、パブリック インフォメーションのワークショップを開催すること、ナイロビの外へ新しいグループに一緒にでかけていくこと、そして最近は他のメンバーのスポンサーをすることなど。回りの国々ルワンダ、ウガンダ、タンザニアからは文献がほしいと頼まれている。彼らの要望にこたえられるように働いている。役に立つことをやる中には、静かな満足感がある。それを言葉にしないと、さらに気分にさせてくれる。だがどうか自分のやっていることを誇示していると取らないでほしい。

 私の回復はうまくいくための三つの真実を基本にしている。一つ、どんなことがあってもいちいち取りざたさない。どんな感情も実際過ぎ去っていく。二つ、ミーティングにいく。三つ、祈る。私はスポンシーに同じことを話している。私の経験はすべて、この基本を軸にしてやってきたことになる。NAウェイについて学ぶことがもっとたくさんある。

 最近、自分がC型肝炎であることを知って、数マイル離れたところにいるフェローシップのメンバーから対処の仕方を教えてもらっている。それは新しいチャレンジで、フェローシップの友人たち(その家族の人たちも)助けになることがあるならいってほしいといってくれている。私はサポートを願うこの気持ちだけで十分だと伝えた。また私は大学院のプログラムに復学をしている。アディクションで失いかけた息子にそのことを伝えた。息子は最新私を愛しているといってくれた。彼はいま12歳で、そんな言葉は以前聞いたことがなかった。私はこれがどのようなことを意味しているか表現することができない。特に過去の自分が引き起こしてきたダメージを思うと。

 回復を通して、関係を再建させて新しい自分を創っている。私は自分自身を発見してゆっくりと自分がすること、自分がなることを見出して行ってる。NAを発見するまえからそれは予想をはるかに上回っている。

 ここでの私たちのフェローシップはまだまだ若い。ここまでやってきてくれるNAメンバーはたくさんのものを私たちに与えていってくれている。自分自身を認識させてくれること、一緒に生きるための道具、そしてずっと人生を通して存在してた空虚を埋める助けとなる人たちを私は見つけることができた。もしあなたもケニアのナイロビを訪れたならいつでも歓迎します。ナルコティクス アノニマスに神の祝福がありますように。


(これはテスト翻訳です。ここからさらに世界各国の9名のメンバーの物語が続きます。)

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