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特集記事「NA成人を迎える」ーThe NA Wayマガジン1998年10月号より


シンポジューム

「NA成人を迎える」

 

 最初に記録されているリカバリー ミーティングがカルフォルニア州、サン・ヴァレーで開かれてから、今年の10月5日でNAの45周年になる。団体の話だとしても、それは長い年月だ。それは年を取っているというほどではないが、きっと成熟している年数だろう。

 私たちが45周年という栄誉を受けて、いま現在のNAと過去のNAを比較できるように、NAを見つけた頃の話をより古いメンバーたちから聞いてみた。彼らは喜んで、それぞれカルフォルニア、オーストラリア、ペンシルバニアでの過去の時代の話をしてくれた。初期のNAのコミュニティがまだ組織化されずに、12の伝統のあり方でも荒削りのまま、サービスもまったく提供できない頃の状況の話を聞くことができそうだ。私たちは物事がいま当たり前のことが、そうでなかったことに驚いた。加えて、彼ら自身が回復をはじめたときの思い出話を聞きながら、それぞれの地域において私たちが成熟していくために、NAがすべき次のステップは何であるか尋ねた。彼らはあなたが知りたいだろうことを、前向きに分かち合ってくれた。

 多くの人々が納得できるような、私たちのフェローシップは成熟期に達した。しかし私たちは若いスピリットの保守が必要だ。依然として心を開くことや大きなステップを踏む準備をしておくことが必要だし、それによって次の45年が確かなものになるだろう。



ボブ・B、カルフォルニア

37年

Q.いつクリーンなったんですか?


A.1961年にクリーンなった。でも1959年に最初に来ていたんだ。そこはまだたった一つだけしかないミーティングだった。


Q.あなたの物語はベーシックテキストでぴったりの名前で載っていますね。「私は世界で一つだけのミーティングを見つけた」。しかしどうやってNAを見つけたんですか?


A.私が見つけたんじゃないんだ。付き合っていた女性が見つけてきた。彼女は助けを探していて、誰かが彼女にジミーの電話番号を渡したんだ。その誰かがサン・フェルナンド・ヴァレーのあるところであることをやっていると情報を彼女に教えてくれた。でも私の中じゃ、世界のどこかの外国でのことのようにしか思わなかった。一度サウスセントラルを離れて、また自分を失った。
 その頃アディクトの行く場所なんてどこにもなかった。レキシントンやフォート・ワースなら、プログラムを始めようとしている二人の医者がいたけれど、どのドアを叩くには多額の金がいった。彼らは、薬物依存とは何であり、こういう方法で治そうと、あらゆるおかしな考えを持っていた。
 とにかくミーティングにいってみると、そこにはこの本を読んでいる人たちがいて、クリーンでいることについて話していた。実際にはクリーンとソーバーについての話だ。人数はそれほど多くなくて、普通は10人ほどだった。大きなミーティングでも20人くらいだったと思う。たいてい半分はノース・ハリウッドのAAのクラブハウスからの人たちで、そこで数人のアディクトが何をやっているかを見に来ていた。

A.彼らはミーティングで分かち合っていたんですか?


Q.必要のあることは分かち合っていたが、ステップは、私にはとにかく意味がわからなかった。それを読み、話をきいた。その話ができる人はそれほど多くいなかった。ジミーやAAからのやってきた人以外には。彼らのほとんどが自分らのことを二重依存(dually addicted)と呼んでいた。彼らはアルコホーリクでAAのメンバーだったが、薬物もやっていた。
 そこには話をすることができる人たちが何を使ったのかを聞くことができた。その頃そのことが重要だった。死のうとしている麻薬中毒者なのか、それとも陽気な麻薬中毒者なのかを知っておかないといけなかった。私たちは人のアディクションに対していつも控えめに話していた。あんたに悟られてしまう。

Q.その頃ほとんどヘロインアディクトだったんですか?

A.全員ヘロインアディクトだった。何人か錠剤依存(pill-head)がいたが、ヘロインも同時につかっていた。何人かはミーティングの話を聞いても、「おれの問題はそれほど悪くない」と思って去っていったが、彼らの多くはさらに酷く悪くなるだけだった。


Q.効いたままくるアディクトは受け入れたのですか?


A.ああ、あからさまにしなければいいと言っていた。もっというと、自分が酒を飲んでいるかいないのかを明らかにしないことが普通だった。つまりアルコールは薬物じゃないという意味だ。


A.ジミーはそれを正さなかったのですか?


Q.そう、ジミーはあらゆることにたいして強制することはしなかった。


A.それじゃ、彼は酒を飲んでいたらクリーンじゃないとは誰にも言わなかったのですか?


Q.ああ、クリーンじゃないとは決していわなかった。


A.それでは、その後どのように変わっていって、NAメンバーがアルコールも薬物だと理解したのでしょうか?


A.それはずっと後になってからだ。病気の概念を理解するようになったときだ。私たちは外部のアディクトじゃない人たちと一緒に動いていた。ソーシャルワーカーのドロシー・ギルダースレブ、ルイス・クイック医師、そしてエマーソン裁判官などだ。彼らは絶えず、助けが欲しいなら伝えてくれと言ってくれて、いつも理解者でいてくれた。彼らは酒を飲んだらクリーンじゃないということをなんとか伝えようとしていた。酒は飲めると思う人がいても、寿命は短くなる。
 そういうことを経験から学んでいった。そのころの私たちは、書かれているすべての伝統を破っていたと思う。伝統は私たちには意味不明だった。ごちゃ混ぜにして、つじつまを合わせたり、除外したり、なんでもやった。それじゃうまくいかなくなるとわかるまで続けていた。


Q.壁に12の伝統を貼ってはいなかったのですか?


A.貼っていたよ、でもAAのための彼らの伝統だった。


Q.どのようなことで伝統を犯したんでしょうか?


A.アルコホーリクス・アノニマスのことを話すこと、彼らと一緒にやること。そういうことがなければ、もめごとはそれほど多く起こらなかったと思う。特に施設内での物事がやっかいだった。テハチャピの矯正施設や他のいろんなところから、AA/NAミーティングを二重に侵すものについての苦情の手紙をもらった。アノニミティはときどきルーズになっていた。


Q.金銭についてはどうですか?外部の人からお金を受け取っていましたか?


A.金を持っている人なら誰からだってもらったよ(笑)。とにかく金に余裕がなかった。いや本当は金を返済する方法を知らなかった。あるとき、とある二ヶ所から金が送られてきた。「きみたちはよくやっているよ。なんとか、かんとか?」それで私たちは彼らに手紙を送って、金を送り返した。私たちはできる限り、セルフサポートでやろうとしたが、ほとんどの場合資金がなかった。とくに印刷に金がかかった。私たちのプリンターはAAプログラムの人の物を使わせてもらって、長い間何年も印刷させてもらい、金はずっと待ってもらっていた。結局そのことを彼に負ってもらい続けていた。年間200か300ドルじゃうまく廻らなかったんだ。


Q.そのとき何を印刷したんですか?


A.ホワイトブックだけ。


Q.それは1961年?


A.ああ、60年代の初めか、そのあたりだ。それから私はまたやることをやって、清算しなおして、1961年にタハチャピでミーティングを始めた。しかしその矯正施設内でやっていたAAに裾野を分けてもらって、入らせてもらった。


Q.ということは、AAの文献を使っていたのですか?


A.いや、ジミーがホワイトブックや、ミーティングを行うガイドやなんかをいくつか送ってくれていた。とにかく、それが矯正施設の中でやった最初のミーティングだった。回復について興味を持って参加しているやつもいれば、少なくとも出所するために紙をもらいに来るやつもいた(笑)。


Q.仮出所をもらうために都合がよかったのですか?


A.ときどき。私の仮出所の監査委員にはよくみられなかったけど、それはかまわなかった。それでAAに自分たちの文献を持ち込んでよいかを聞いてみて、ふつうミーティングの半分を使わせてくれた。


Q.伝統の解釈に、寛大でいてくれたんですね?


A.そういいたいけれど、私たちが伝統を理解していなかったんだ。


Q.AAのメンバーもわかっていなかったように聞こえますが。


A.彼らはわかっていた。ただ気にしてないだけだった。


Q.外に出てから、街にはミーティングがありましたか?


A.ああ、三つあった。

Q.すべてヴァリーですか?


A.いや、一つはハリウッドだった。そこは中心街にあるから重要だった。人々がミーティングに姿を現し始めていた。それは懲役にいくことのすり替え作業のようになっていた。仮出所や保護監察局がその角にあったわけじゃない、彼らが居ないからじゃない。彼らはまたアディクトの問題を正そうと考えていた。私は自分のやり方を通したいと思っていて、まだ仮出所の職員を問題をたくさん起こしていた。使っていなかったが、狂っていたときと同じ話し方だった。権威と問題を抱えてえたというわけだ。自分の思ったとおりにやろうと考えていたんだ。あんたのところにクリーンテストを受けに行って、うまくパスする。家で過ごし、ミーティングにいこうとする。でも彼らは私にミーティングに行ってほしくないわけだ。


Q.それじゃ、そのころ矯正団体は、まだアディクトが集会をすることに懸念を持っていたということですか?


A.ああ、NAは承認されていなかった。もっというと、もしあなたが仮出所中ならば、他のアディクトや犯罪者と集会を共にすると、それは違反になる。4年間で私は3、4回の司法局ともめた。私は保護観察委員に対してけんか腰なもんで、彼らに「その態度をかえないと、監獄に送り返す」といわれたよ。


Q.それじゃ、PO(保護観察委員)は実際そうしたんですか?


A.ああ。


Q.それはひどい。ミーティングに行くから投獄されたんですね。


A.ああ。でも、刑務所で信じるようになった。どのみち彼らはよいことをしてくれたよ。それで、私たちはできる限りで、中でNA事をやっていった。その頃はすごいファイリング・システムはなかったから、事務所はなかった。ジミーがおそらくもっとも変わらない一貫した電話先だったから、みんな彼に電話した。


Q.NAでの決定の際に、誰かがそこにいたのですか?


A.いや、私たち親組織(parent organization)とよんでいた。親組織は、2、3のミーティングのセクレタリーと会計係が数人で成り立っていた。


Q.それぞれのミーティングのリプリゼンテーティブ(代表者)ということですね。


A.ああ。


Q.それは小さなASCという感じですか?


A.そう、そこには10人ほどがいて、私たちはアンサーリング・サービスをやろうとしていた。アンサーリング・サービスは電話で回答したり、それからどのエリアに、どのNAメンバーが住んでいるのかをリストアップして、また12番目のステップの呼び出しが利用できた。


Q.それじゃ、たくさんの12番目のステップの呼び出しをしに行きましたか?


A.ああ、そのとおり。12ステップ・コールは、まったくのイベントになっていた。2人か3人、または6人くらいがよく外に出かけていって、12番目のステップの呼び出しをした。入った先に何があるかわからないから、あなたもたくさんの人を連れて行くだろう?あなたは変てこな12ステップ・コールをしに歩いて入っていくわけだ。そこには薬物がテーブルの上にあったり、拳銃がおかれていたり、被害妄想のやつがいたりして、そいつや、そいつの女が怖くなって叫び出したり、なんでもありだ。そこではたくさん狂ったことがあったが、何とかとにかくやっていた。私たちそこにいる奴を捕まえて外に出て、彼をクルマに乗せて、家に連れて行って、座らせて、一晩中話をした。初期のあいだ、働いていないNAメンバーがたくさんいたように思う。


Q.それであなたはその人を座らせて、メッセージをしたのですね。


A.ああ、そしてしばらくの間そのまま逃がさなかった。彼らを連れて行けるような解毒施設なんてその時なかったから、ただ座っていた。私たちは自分たちだけで、やり過ごしていた。


Q.彼らは望んでやる気になると思いましたか?


A.うーん、彼らはそんなにやる気がなかったけど、他にやることがなかったんだ。私たちの態度は、「もしあんたが助けが欲しくなかったら助けを呼ばないだろう」、といった感じだ。


Q.ということは、彼らを蹴り上げて連れてきて、また彼らをまた放り出すのですね。それで、彼らはクリーンでいるか、またはそうしないのか?


A.そのとおり。私たちの誰かが、彼らにマッチを与えて、そしてこう言う、「自分を焼き尽くしに行って来い。本気じゃないんならもうこのあたりにやって来るな」。それ以上のことをいったと思う。それは鼻柱が強かったから。その状態から成長していくためには、メンバーが増えることが必要だったと思う。私たちはミーティングを開いていくためのことや伝統についてのこと、アディクトがクリーンでいるために助けになると思われることなどを書くことで大変で、余裕がなかった。NAについてこと知られるための仕事をするためのコミティのようなものが必要だった。
 また60年代は、アディクトの扱いに対しての考え方の社会的転換を迎えていた。カルフォルニアにリハビリテーションセンターやなんかがあった。それにラジオ局のスタッフもした。彼らはよくミーティングにやってきて、駐車場やなんかでインタビューをした。NAとは何か、またはNAはこういうものではない、ということを説明するよい機会になった。それで私たちは月に一度ある時間帯にラジオ放送局で情報を流してもらい、数回放送してもらった後に、ラジオで耳にした人たちが姿を現し始めた。


Q.ミーティングでヘロイン以外のアディクトが見られるようになったのはいつですか?


A.たぶん63年か、64年だったと思う。それはちょうどフラワー・チルドレン(ヒッピー文化の若者)の世代のときだった。それでわかると思うが、彼らは大量にやりまくって、何でも手にしていた。それで、「俺たちはこのことを受け入れないといけない。それも薬物だ」と思った。彼らは気が狂っていて頭がおかしくなっていたよ。それもうまくいくのを私たちは見てきた。人々はクリーンでいることを始めていた。そのことが多くの成長に発展した。保護監察官は時々私たちに人々を送ってきた。そしてそこに共同体志向の人たち、言わばNAの友人たちがいた。そこからが最初のトラスティ(信任された者)が生まれた。アディクトじゃない人たちが間違いなく必要だということが決定された。彼らはアドヴァイザーの役割をできる人たちだった。彼らのほとんどがソーシャルワーカーだった。それが大きな変化になった。彼らは私たちにする必要のあることを教えてくれたりトレーニングしてくれた。私たちは何にもわかっちゃいなかった。私たちは社会のクズの集まりに過ぎなかった。


Q.NAが全体として成熟期を迎えたことついてどう思いますか ?


A.私たちは仕事がこなせる人たちがたくさんいる事実をもっと受け入れていくだろう。私たちはよりビジネスライクになっている。いまはそれが主流だ。私たちはその流れを何年間も認めてこなかった。私たちは本当に70年代の初めからずっと、そんな認識も持ってなかった。


Q.それから何が起こったんですか?


A.成長は北カルフォルニアを起点として、コロラド、オーストラリア、イングランド、フィラデルフィアに広がっていったと思う。人々はクリーンになり、それを続けるための場所を見つけ出していった。そしてオフィスがとても重要になった。オフィスができたあと、私たちにあるのは、アンサリーリング・マシンとPO(Post Office)ボックス(私書箱)だけだった。送られてきた郵便にいつ返答できるかは、誰がメールボックスにいくか、またはその鍵を誰が持っているかによっていた。


Q.それが私たちがもっとも集約して安定して維持しきたものなのですね?


A.それだけだった。それがワールド・サービス・オフィスだった。


Q.世界中が入っている箱。

A.まさにその通り。私はその中身を取りにいって、回答できる人をつかまえるまでトランクに入れて運んでいるだけだった。


Q.他にやるべきことはあるでしょうか?私たちが成熟していくために必要なことは?


A.ワールド・サービスで行われているフェローシップを情報提供していくことが必要だ。ワールド・サービス・カンファレンスで何があったのかを知らない人がいる。彼らはなぜカンファレンスがあるのかも知らないのだから。





デビ・S、カルフォルニア

25年


Q.クリーンになったのは1973年で正しいでしょうか?


A.そのとおりです。


Q.その頃どのくらいのNAミーティングが行われていたのですか?


A.えーと、私はトリートメント・センターに行き、そこのみんなでNAミーティングにいくことにしたんですが、そこにはいろいろ問題があったので、トリートメント・センター内で、週に二つのミーティングを開いてました。


Q.ハウス・ミーティング?それともすべてのNAメンバーにオープンなミーティングですか?


A.はい、NAコミュニティがやってきてミーティングを開いていました。だから中は私が一緒にクリーンになった人と外から私たちのミーティングにやってきた人たちで一杯になっていました。彼らはいろんなところのミーティングに出ている人たちでした。私たちは他のミーティングにも行って・・・。


Q.AAミーティングといっても大丈夫です。


A.そうします。私たちはたくさんAAミーティングにでました。そこらかしこで毎晩やっていたからです。そしてNAは出来たばかりだった。私たちのいたトリートメントセンターは西ロス・アンジェルスにあったので、私たちはクルマに乗って一時間ドライブして、一回もいったことのないエル・モンテという町に向かいました。そこでNAミーティングがやっていました。クレンショーの地域でもミーティングがありました。ヘルモサ海岸でも一つありました。
 それだけ。それが私たちのNAのコミュニティ(共同体)でした。3、4のミーティングから今晩のミーティングを選ぶということができませんでした。たいてい移動手段がないので、近くのミーティングに行かなければなりませんでした。それで私たちはたくさんAAミーティングに行ってたのです。


Q.あなたがスピーカーズ・ミーティングの中で、初期の回復はAAの中にいたと話していたことを覚えています。そしてあなたは、NAのピュアリスト(NAの純粋なメンバー)に、自分が出て行ってやり直してほしいかどうかをたずねた、と言ってました。


A.そうです。多くのオールド・タイマーは初期の頃に、AAの中で悪い経験をしていますが、私は総合的に、完全にポジティブな経験をさせてもらったうちの一人です。トリートメントセンターは大量のメンバーをAAのクラブハウスに送っていて、そこのメンバーたちは私たちを愛していてくれました。その大量のニューカマーの前に、彼らはずっと年配に見えていたのですが、たぶん今の私と同じ年齢だったと思います。彼らは私たちを歓迎してくれて、ここに戻り続けて来い、そして話すときに言葉の選び方に気をつける必要はないといいました。私は手を挙げて、アディクションや、薬物のことを話すことができました。彼らはそのまま私たちを受け入れて、勇気をくれました。その頃にミーティングに行くことでよいポジティブなサポートをしてもらったことを覚えています。
 それから、もちろんNA文献はありましたが、たくさんはなかった。ホワイトブックレット、それだけ。私たち全員がAAのビックブックとAAの12のステップと12の伝統を使っていました。自分は幸運だったと思っています。私の12のステップを続けて、毎週末病院にそれを運んでいるスポンサーを得ました。


Q.その頃、NAのコミュニティ(共同体)の中での経験は多くなかったのですか?


A.ありませんでした。でもAAを基盤にしたステップミーティングに行けば、彼らはステップをする作業についての個人の経験と、材料に関しての情報を与えてくれました。


Q.現在のNAにニューカマーが来たとき、あなたがその頃のAAでもらったような成熟されたものを受け取ることができていると思いますか?


A.(長い待ち時間)ときどき。自分自身の話をしますが、NAプログラムに来たとき、そこにいる人たちがどんな類のプログラムをやっているのか、判断できませんでした。そして、どうやってスポンサーを選べばよいかを教えてもらえませんでした。彼らをIP類をたくさん広げていませんでした。


NAの中で長いクリーンを続ける他の人たちと長い間ずっと話をしてきて、私たち皆が気づいているのは、AAから正式に切り離された時に、私たちは自分たち自身の言語と本を手に入れてことです。そこにはよい面があり、もちろん悪い面もあります。
 よい面は一体性、そして新しい人にとっての認識の仕方、もし新しい人がやってきて、異なるプログラムをしている人皆から、違う言語を聞いたとしたら、それは困惑するでしょう。


Q.悪い面はなんですか?


A.たくさんの知恵を失うでしょう。私のような人に与えてくれたAAの古いメンバーたちの持つ、たくさんの経験を得るチャンスを失うでしょう。


Q.回復の場をAAに移すために離れていくメンバーをたくさん失いましたか?


A.その後やってきて、新しい言語を使うように言ってくるNAメンバーに、憤りを感じたNAメンバーがたくさんいました。彼らはすべてのミーティングでメンバーが言ったことに関するアナウンスを読みあげていました。それで彼らは離れていき、その回復も彼らと共に持ち去られました。私が話しているのは、そのとき10年、15年もクリーンがあった人たちのことです。
 私は何とも戦わない立場をとりました。私の後に続いてやってくる女性たちのために、私は自分がNAにとどまる必要があると感じていました。もし皆が脱退したなら、自分を偽るのは自分だけでしょうが、新しい女性たちが、ドアから入ってきていました。
 この場にいたくないと思うようなことが何度もありました。5年クリーンのときにミーティングに一人きりだったり、ミーティングでたった一人の女性メンバーだったときに。そのとき、大脱出(exodus)が起きたのです。
 自分の基礎固めがどこで始まったか、私は否定しません。それをミーティングで話すことが難しいときもあります。少ない言葉に、私の心に深くとどまっているものを切り取ったり、言及していると思う。ある時から私は気に病むことをやめました。自分の物語を変えることはできない。自分がどこから始まったかを変えることはできない。それと共にやってきた。ときどき、私のところにやってきてNAをもっと推進するべきだろうと怒りを見せる人たちもいますが、NAはまだ新しかったし、成長しているのだと彼らに説明しようと努力しました。彼らは誤りうる人たちで、実際間違いを犯すでしょう。もし誰かがあなたを攻撃することを言う人がいたとしても、させておけばいい。このNAに居続け、ドアからやってくる新しい人たちのために、ポジティブな力を向けていればうまくいきます。


Q.ニューカマー来て、もし彼女がクリーンとソーバーでいることについて彼女が話しをしたとしたら、大きな敵意が起こって、追い払ったりブーイングが巻き起こったりしましたか?


A.ありました。それは他の人へ向けられた極端な行為だったと思います。でもいまはバランスが保たれています。人々は以前よりも理性的になっていると思います。
 トリートメントセンターにいる新しい人たちは、一週間、毎晩違う種類のミーティングにいっていると思います。彼らはミーティングで何をやってるのかわかっていません。あなたは、彼らに恥をかかせて部屋から追い出そうとはしないでしょう。でも80年代の初期はそういうことがありました。今はもうなくなりました。


Q.それじゃ、NAは少し成長したということですか?


A.はい、間違いなく。




メルビン・B オーストラリア

23年


Q.あなたがクリーンなったころ、オーストラリアではNAは発展していましたか?


A.いやまったくやっていなかった。


Q.あなたはメルボルンにお住まいですよね?それじゃシドニーではどうでしたか?


A.あったけど、なかったというか。リハビリセンターのためにNAの名前を使っていた人がいて、そこにはたくさんの論争が起こっていて、始まったり、なくなったりしていた。
 メインスタートは、私が思うにメルボルンだと思う。歴史を知る人たちについてわかっているのは、彼らは人々に知られたいと思っていないし、そういうことを好んでもいないため、しばしば話を聞き逃してしまうということです。でも私はNAがどのように始まったかを伝えることはできると思いますが、それは、ぼろ切れから富豪(わらじ長者)の話じゃなかった。アディクトは破れかぶれの物語だから。ホワイトブックがあって、それから薬物中毒者の家族むけのガイドがあった。そこにはAAのクリーンでいるメンバーたちがいた。
 どうやって私がAAミーティングにいったのかというと、まずヘーゼルデンを通してこの本をもらい、これはいいと思って、もっと他のものもあるんじゃないか?と考えた。それで1975年にヘーゼルデンに手紙を書いた。彼らは返事をくれた。中にはカタログがあって、その中に二つNAのものがあった。ホワイトブックと、薬物中毒者の家族向けのガイドだった。


Q.それはNAからのものですか?


A.いいや、ファミリーズ・アノニマスだった。とにかく、たくさんあって、それを郵便で注文して、すべて手に入れた。それがもとでたくさんの論争を呼んでしまった。それは承認された文献ではなかったんだ。あれもこれも。
 とにかくその時期は、私はとても病んでいて、肺結核と診断されていた。それで病院に入院しないといけなくなって、そこに居る間に、ボランティアのアルコール&ドラッグカウンセラーになろうと決心した。そのトレーニングのために、丸一日かまたは半日かけて、メルボルンのトリートメント施設で毎日過ごしていた。その周りの関連のところにいってみて、気づいたのは、やめようと思っているアディクトや、苦痛を何とかしたいと考えている両親のための場所はどこにもないということだった。それでヘーゼンデンから手に入れていた文献を読んで、NAとFA(Families Anonymous)を知ったので、両方始めることにした。そのとき、ジミー・Kに手紙を書いた。素敵な返事をもらって、そこには励ましの言葉と、そのときにとても役に立つ文献が入っていた。NATreeやなんかだった。


Q.返答をもらうのにどれくらいかかりましたか?


A.ああ、本当にすぐに来たよ。


Q.それはすごい。その時代に手紙が返事が届いたという話を聞けて、私もうれしいです。


A.とにかく、周辺でやっているAAミーティングに行って、メルボルンに若い人たちのグループがあって、そこで薬物について話を聞けた。シドニーでは、NAが始まったりなくなったりしているという話を聞いていたので、私たちはそこでシドニーでやっていた二人に会いに行った。私はミーティングを行える場所を探して、会場を見つけることができた。実際に始まったのは、ナルコティクス アノニマスと、ファミリーズ アノニマスの二つで、週に違う日に、同じ場所でやっていた。私が知る限り、それがオーストラリアでの伝統に基づいたNAの始まりで、それから各地に広がっていった。


Q.それは何年ですか?


A.1976年。個人的な視点からの興味深いことは、もし私がカウンセリングを受けなかったら、薬物使用についてAAで話すことはできなかっただろうし、他の人も同じだったと思う。言い換えると、クリーンとソーバーのためにNAは必要なかった。
 それから、私にはいつもFAとのつながりがあった。もちろんそれは歴史的な経緯のあるコネクションを好んでいない人たちの怒りや憤慨を買うことになった。もちろんそうじゃない人もいるが。


Q.どうして彼らはそういったものを好まないと思いますか?


A.うん・・・、もしあなたが伝統に神経過敏であろうとするなら、NAメンバーに話してほしい。なぜなら、もっと非常に切迫した人たちがいるからだ。私たちがどう生き残ってきたか私にはわからない。なぜならNAには今も自己破壊的な要素があるからだ。私は自分の前方を見ている。
 とにかくそうやってNAがスタートした。そこには私を含めて7人がいて、しばらくその状態が続いた。NAでクリーンとソーバーを手にした最初の男が、私の結婚式での付添い人をしてくれたんだ。


Q.それはすばらしい。


A.ああ。私が彼をAAに連れて行ったんだけど、彼はAAを好まなかった。そのあと彼はさらに悪化して、NAに連れて行ってみた。私の知る限りじゃ、それからずっと彼はクリーンでソーバーも続けている。彼はベンディゴでNAを始めた。


Q.その頃シドニーのNAはどうなっていましたか?何もなかった?


A.なかった。私たちが伝統に沿ったグループを始めたのが1982年か83年だったと思う。それからシドニーでも力強くなっていった。


Q.読者が知りたいと思っていることはひとつ確かなことがあると思うのですが、NAがどれだけ成熟したかということについて。NAがまだ未熟だった頃の話を聞きたいのですが。メンバーの中の一端の伝統を厳守する人たちと、もう一方の端の伝統について何も知らない人たちとどうだったか?


A.それは今もかわらないと思う。初期の時期はまだましだったかな。


Q.なぜそう思いますか?


A.昔はもっとリラックスしていた。そして私たちは必要なアウトライン(あらまし)にしたがっていたし、共通の利益のために働こうとしていた。しかし大きくなるに従って、気色張る人が多くなった。


Q.どんなところにNAが成長する余地があると思いますか?どこに問題があるとおもいますか?


A.狭い考え方、頑固さ。新しくやって来るアディクトは、私がやってきたような、ミーティングにいき、本をよみ、ステップをやるという厳然たる事実を受け入れようとはしないだろう。


A.あなたは基本的に、セラピーや宗教のようなあるNA意外のものに助けを求めることを受け入れようとしない、特定のNAメンバーについて話しているのですか?


A.よい例はこの前、NAマガジンで読んだ漫画に描かれている。ある女性が何か他のものを探してみようと話をしている。もう一人の女性がそれをすごく心配している。


Q.そうです。それは1998年の1月号に載ってます。


A.それについてあなたに手紙を書こうと思ってた。


Q.えー、もう書く必要はなさそうです。今マガジンのためのインタビューをしてますから。


A.私はこの漫画は、NAの外で何かをやろうとする人たちに恥をかかせる内容だと思った。そういうやり方は争いの種になる。不寛容さをあらわしているよ。私たちは人々みんなに敬意を持ったほうがいい。もし私たちが、狭い視野でNAの外で何かをしてしまった人を恥をかかすようでは、敬意などなくなる。言いたいのは、あなたが発行したものはNAで中で普通のことだということだ。フルタイムのカウンセラーになったときから、私にも多くの偏見があると思う。もっというと、私は無神論者だ。それは私には回復中のアディクトではないと思っている人たちには、大問題をもたらすだろう。それから私はミーティングに行くことをやめた。それは別問題だけど、ミーティングでたくさんクソをくらったし、自分の患者をミーティングに送っているからだ。彼らはミーティングに行かなければ、クリーンで居られないという。そんなのナンセンスだ!
 私がつながったばかりの頃は、すべて持っていってた。もしあなたが今、ミーティングで熱心にステップや12ステップの実践をしている人に会いたいと思っているとして、私はもともとそんな感じの人間だった。時間が過ぎて、私は変わっていった。いま自分に問いただしてみる、回復とは何からの回復なのか?病気とは何か?私たちだけの中で回復とは何か?そのための道は一つ以上ある。
 NAはいつも、新しくフェローシップに加わった人たちで生まれ変わり、成熟していき、彼等の人柄が反映されていった。しかし円の外側のやり方は駄目で、中はよいというのはとても危険な考え方だ。
 私はアディクションが病気だというのは信じていない。それは私にとってまったく持ってナンセンスに思える。1935年から1953年だったかには病気だということが役にたっただろう。いまはクリーンになりたいなら、NA以外の何か他には行くべきでない、というのが役にたつことだと言う。あなたはどれだけのアディクトがクリーンになったのか知っているだろう。しかし他のアディクションに突入している。


Q.または、根本的に変わってないだけか。


A.まったくそのとおり。私にはもう一つNAの哲学との不一致があって、それは私が神を信じていないことだ。ステップをよくみると、書かれているのがいわゆる本当の神であることがわかるだろう。私は人々をカウンセリングするときに、最初の三つのステップを通して、より高い自分(higher self)や、重要な4,5ステップで原動力になるものなら何でもよいと考えてきた。
 しかし私たちはこれを神聖なものとして扱った。これは本の中に書かれている内容と、合っていると思う。私はベーシックテキストの原稿を書く手伝いをして、それは自分のストーリーだけでなく、テキストの中身の内容についても書いた。それは間違いをしでかす可能性のある人間が、特別な時期に書くことができることで編成されたものだ。


Q。新しい文献について伝えておきたいのですが、新しいステップワーキングガイドでは、注意書きに、ハイヤーパワーまたはハイヤーセルフの原理という説明を使っています。


A.それはよい傾向だと思う。しかしグループにいたとき、人々が新しくやってきて、こういうものを信じるとよいと、いわれたら失望するだろう。古いものを宣伝することは簡単だ。古いメンバーたちはフェローシップからのサポートがあったからクリーンでいることができた。しかし特定の主義に沿ったときだけ、サポートが得られる。もし主義に沿わなかったら?とがめられて、追い出される。それが新しい人たちに起こっている。私みたいな新しい人に。その愛は無条件ではない。


Q.それはNAは無条件の愛が必要だと考えているのですね。



A.そうです、それが本当に癒しの力を持っているから。





デイブ・F ペンシルバニア

24年


Q.1974年にあなたが見つけたNAはどうでした?


A.地域のリハビリ施設があって、そこは自己啓発的なリハビリ施設で、アディクトが利用できた。はじめ5,6年間、アルコール中毒者を扱っていて、その後60年代の後半にはってから、アディクトも扱い始めた。そこの医師がアルコール依存にうまくいく原理はアディクションにも効果があると信じていた。
 そういうわけで、その時期NAが存在した。週に二回NAミーティングがあって、フィラデルフィアにはNAがなくなっている時期もあった。しかし1969年以降はほぼミーティングをやっていた。手早く興味深い話をしようか?


Q.話してください。


A.重要な文献に関係のある話だ。地域のあるアディクトが1969年に、カルフォルニアで開かれたAAのコンベンションに参加したとき、彼は、「見てください。NAというのがあります」といっている人を見つけた。彼らは一つ一つ、ホワイトブックを手渡した。
 そしてもらったそのアディクトがホワイトブックをリハビリ施設に持ち帰り、施設のセラピストに見せた。それでNAミーティングがスタートしたんだ。NAについては、すべてホワイトブックから知ったんだ。



Q.それで十分な情報だったと思います。


A.そうだね。そのあと、リハビリ施設と利用した人々が、その知り合いの中でミーティングを始めた。ところで私は1974年の一月につながって、その時にデラウェア・ヴァリーで5,6回のミーティングをやっていた。そこはフィラデルフィアの郊外のコミュニティで行われていた。
 また60年代終わりから、70年代のはじめにかけて薬物問題が増加していた。たくさん薬物リハビリ施設が出現して、シナノン アプローチ(取り組み方)をモデルとして、社会から長い間引き離しておくことで、治療できると主張している施設だった。それらの多くの施設は、アディクトには、日常生活でアルコールの問題は存在しないといっていた。
 そういう状況の中で、ホワイトブックやミーティングの中ではアルコールは薬物だと明白にされていた。その頃はこの考え方は急進的な少数意見として見られていた。ある施設では、一年いた後に、社会の中での酒の飲み方を教えようとしていた。彼らは、利用者を夕食に連れ出して1、2本のビールを飲めることを見せ付けていた。


Q.私たちは長い道のりを歩んできたのですね。12の伝統についてはどうですか?フィラデルフィアのコミュニティは伝統に従ってやっていましたか?それについての話はありますか?


A.それは面白い話題だ。なぜならみんなAAに行っていたんだ。みんなそうしようとさえ思っていなかった。それは無謀だとみなされていたけど、ためらいながらも、NAミーティング単独でクリーンいようとがんばっていた。その頃のNAメンバーは単純にクリーンタイムなんてなかった。自分の最初のホームグループのことをよく覚えている。それは大きなミーティングで12から15人がいて、それがNAに参加する全員をしれた人数だった。


Q.1974年のフィラデルフィアのNAミーティングではそれが大きなミーティングだったんですね。


A.そう、デカかったね。そこに3年持ったといわれていた人が脱落した。その頃の3年というのは、並外れた期間だったんだ。それで私たちはAAにいき始めて、いまのフェローシップの人には、それは厳しい時期だったと理解している。私たちはAA文献をミーティングでよんだ。
 AAとの関係がなくても、私たちは伝統に従ってきたと言っておきたい。トリートメントセンターでのミーティングで、外からミーティングにやってくるアディクトに、尿検査が必要だというある施設のスタッフがいた。私たちはそれを「中間のグループ(Inter group)」と呼んでいた。そしてそのミーティングをサポートすることをやめた。それは伝統にそむいているから。


Q.それの問題は現在でもあります。


A.しかし私たちは自分らのことを決して小さなAAとはみなしていない。始まったときから、個性を兼ね備えていた。私たちはAAにいって、経験豊富なアルコホーリク(アル中)たちからスピリチュアリティとステップを学んだ。


Q.NAの言語が、NAのアイデンティティの確立に役立っていたといえますか?


A.私はそうだと、まったく思わない。私たちにはとても明白なアイデンティティがあった。独自の活動をしていた。私たちは自分たちのグループあった。メッセージを運ぶための一般との関係を築く努力をしているコミティがあったし、いまよりも前向きな姿勢があったといっておきたい。フィラデルフィア独自のホットラインがあった。あるアディクトの家にあった。NAの言語を取り上げなくとも、NAにはAAと距離をおいたアイデンティティがあったといっておきたい。しかしそれは前半から半ばの80年代まではそれに当てはまらない。


Q.それはペンシルバニアのフェローシップにどう影響しましたか?


A.たくさん問題が起こった。そのせいで、長い間NAに参加していた人たちがそれ以上居ようとはしなくなった。その「正しい言葉の使い方」をしようとする波及が人々を遠ざけてしまった。でもそれは最初の出来事じゃなかった。私たちにNAツリー(NA Tree)を知らされたときも大きな大脱退があった。


Q.おお、それは本当ですか?


A.ああ、NATreeはカルフォルニアで決められたあとの1977年くらいに普及した。多くの人たちはそれに抵抗した。それが少数派に変わっても、その抵抗は強く、新しいサービス機構を勝手に押し付けられたと感じる少数意見の人たちは受け入れまいと抵抗した。


Q.あなたはどのサービス機構が好ましいとおもいますか?


A.AAの方がずっといいと思うよ。私たちはインターグループだった。


Q.読者すべてがAAのサービス機構を理解しているとおもいませんので、すこし詳しく説明できますか?インターグループは何をするのですか?各NAグループからの代表がインターグループミーティングにいくのですか?


A.うん、それはとてもうまくいっていたよ。そのミーティングでは他のエリアからの積極的な参加を促していた。


Q.それはすごい。その他に何かサービスを提供していましたか?


A.うん、私たちは一般との関係を持っていた。文献コミティがあった。私たち独自の文献があった。私の理解している限り、60年代初期にカルフォルニアから最初に、第一ステップで「アディクションに対して無力」と読まれるようになり、1969年にホワイトブックでそう書かれるようになったと思う。しかしここ東海岸で、「薬物に対して無力」にすべきだと決めようという声があった。しばらくそのままの状態が続いて、それは現実として論争に挙げられるようになった。当時ミーティングで「薬物に対して無力」と読まれていて、NATreeが確定したとき、ミーティングの中で、「これはNAではない」ということをいう人たちがいた。また私たちはいつもカルフォルニアとコンタクトを持つように努力していたけど、返答はいつも得られなかった。そのときニューヨークには、生きたフェローシップはなかった。私の知る中で生きたフェローシップはどこにもなかった。初期のNAにおいて役割を果たした人たちが離れていってしまったんだ。
 しかし離れた人の数だけ、残った人もいて彼らは栄誉を受け取る事ができた。フェローシップの著しい成長を見ることができた。そして歩み寄りを見せた。NA言語についての論争は数年かけて収束していったといえるだろう。人々がミーティングに来てどんな話し方でも、ネガティブな反応なしで分かち合うことができる。


Q.他になにか変化がありましたか?


A.うん、今のミーティングじゃお目にかかれないことを話そうか。フィフティ・フィフティラッフル(富くじ)をやったんだ(編集者注釈:ラッフルチケットを決められた量を販売して、集められた金は、ラッフルを行っている団体と、チケットを当てた人との間に振り分けられる)。


Q.ミーティングの中で?


A.今の状況からどれだけ違っているか想像きるかい?いまじゃ決闘に発展してしまうな。


Q.今のNAではありえないような、ワイルドでクレイジーなことがありましたか?


A.ミーティングでタバコを吸ってた。コーヒー、ドーナッツ、タバコがどのミーティングにもあった。誰も禁煙なミーティングをやろうなんて考えはなかった。


Q.他には?


A.人々はその状況から抜け出すために、新しい仲間が必要だとわかっていた。聞き耳を持った病気の人の存在は貴重な資源だった。またリラプスすることが、今とはちょっと変わった目で見られていた。今日のリラプスは明日の回復のためになるものだという気持ちでいた。ミーティングでリラプスした話は、ある人たちはよいことだという風に聞いていた。その残りの人たちはそれは理屈に合わないと思っていた。リラプスは深刻な事態を招くし、なんとかして避けるべきだ。


Q.このところ、人々の底突きが浅くなってきたことは、その人のためになっていると考えますか?


A.そうは思わない。最近、みんな他人に方向性を伝え合うことを恐れていると思う。人に伝えることは、物を知っているからじゃない。みんな勘違いをしていないか?こういう風に思っちゃいないだろうか?あなたがやったことはすべて受け入れると。そんなのはでたらめだ。しばらくたつと、人々は方向性が必要になる。私の周りにいたオールド・タイマーたちは、あなたが何か、勘違いしてた考えを読み取るだろう。二週間前にミーティングに行ったとき、ある男が、アルコールはまったく問題にならないし、飲むことができるといっていた。私はそれを途中でやめさせて、NAプログラムはあらゆるものを立つプログラムで、彼は本当の分かちあいをしていないといった。みんなは私の言ったことにまごついていたよ。


Q.あなたの視点から、NAで、成長のために残された部分は何でしょうか?NAのための次のステップは?


A.もう一度、電話番号やミーティングリストが相手にしっかり伝わる要件で、公共に向けてメッセージを発信することが必要だと思う。基本的に、今の状況に対してとても幸せであるとおもう。私はこれにいたる成り立ちの歴史に興味がある。次のやるべき大きな行動は、それぞれのリージョンでの歴史の記録の編集だろうと思う。いまのコンベンションは信じられないくらい大規模でよく組織化されていると思う。アディクトが寛容さをもって、それを開催してきたことを神に感謝している。
 またやりたいと思っているのは、ニューヨークにおいてのフェローシップが1949、1950年に存在していたことを振り返ることだ。1951年に、まだ今の組織として成り立つ前に、ニューヨークでのナルコティクス アノニマスで書かれたもののコピーを持っている。また1951年にニューヨークで出版された、「私たちの生き方」、「ナルコティクス アノニマスとは?」のコピーも持っている。私たちは自分たちの歴史についてよく話し合いをすることが必要だとおもう。それでカルフォルニアの人々の貢献に対し、差し引こうというつもりはない。私はホワイトブックが東海岸についてから、自分の人生を取り戻した。ジミー・Kの貢献を差し引こうとは思わないけど、ダニー・Cや、ヒューストン・Sの貢献も語っていきたいと思う。カルフォルニアとニューヨークそれぞれのフェローシップのつながりを探っていくべきだとおもっている。その間にはたくさんの接触があった。
 もう一つ私がしたいことは、80年代後半に、妥協せずに、要求をのまなかった、見えない影の貢献者たちがいたことについて触れたい。彼らは物事をたくさん与えてくれたし、いまもそれがここに残っている。
 いまあなたはクリーンになることができるし、他のフェローシップのミーティングにいく必要もない。フェローシップが大きく力強くなったことを私は見てきた。私たちはもう他のフェローシップに解散していってしまうと恐れを抱く必要はない。もうどこにも行くことはない。





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