北海道の廃線跡探訪 第54回 胆振線(2/6)上長和~久保内間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪第54回 胆振線伊達紋別~倶知安間その2 上長和~久保内間です。
この区間は、壮瞥の手前に第2長流川橋梁が残っていますが、壮瞥~久保内間は農地化されているところも多くなっています。
なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.上長和~壮瞥
上長和から1㎞ほどでサイクリングロードは終わる。
かなり高低差のある新しい道路へ上る区間はもちろん廃線跡ではなく、終点を示す標識が建っている。
ヤブとなった路盤は、やがて農地や農道となっている。
長流川が近づくあたりでは、草刈りされた築堤となり、小さなコンクリート橋も残っている。
その先にも橋があるはずだが、猛烈なヤブでとても入れないので、仕方なく国道からヤブを下りていくと、一段下がった路盤があった。
路盤には直径30㎝以上もある倒木が何本もあったが、ヤブはさほど濃くなく、上長和方へ少し行くと、まだ新しさの残るような小さいコンクリート製の橋があった。
壮瞥川を渡る第1長流古川橋梁は完全に撤去されていたが、少し上流側に丸石積みの橋台がある。これは旧線のものかと一瞬色めきたったが、帰宅して確認したら、旧国道のものらしい(上掲地形図は旧国道時代。現在、ここは直線化されている)。
路盤は長流川に沿って続き、今は町営住宅が建っているところを抜けていた。
町営住宅横の細道を入ると、玉砂利が残っていたので、ここが路盤らしい。しかし、道は下方へ降りていってしまい、道とわかれ直進している路盤は、ヤブとなり、進めなくなった。
帰りがけに、路盤近くで菜園を作っている人と出会ったので、胆振線跡のことをきいてみた。
やはりここが路盤で、第2長流古川橋梁はヤブとなった路盤の先にあるが、見るには細流のなかを下って行くしかないという。
親切に案内してくれたが、長靴でないと近くへ行くのは無理だった。長い草刈鎌でササを除けてくれたので、鉄橋が少し見えた。
町営住宅の一画に築堤のような土盛があるが、これは宅地整備の際の残土で路盤ではないとのことだった。
後日、長靴を用意して、第2長流川橋梁に出会うことができた。先日の人にお礼を言いたかったが、残念ながら不在だった。
ここから壮瞥までの路盤は、公園や住宅地となって消えている。
壮瞥市街の手前の国道脇には、「国鉄胆振線跡」(旧線)の標柱がある。
あたりにはそれらしい地形はなく、「跡」が国道を指すのか、それとも標柱の建っている場所なのか、よくわからない。
3.有珠山の火山活動(昭和新山形成)による線路移設区間
1943(昭和18)年末に始まった有珠山の噴火は、のちに昭和新山を中心とする一帯の土地隆起により胆振線にも大きな被害をもたらす。
沿線鉱山の鉄鉱石などが戦略物資として重要視されていたため、突貫工事で上長和~壮瞥間の線路の復旧・移設が繰り返された。
結局、胆振線は長流川近くまで追いやられ、1945年9月ようやく火山活動も沈静化、線路も安定するに至った。
ちょうどこの時期に、胆振縦貫鉄道は国有化されている。
隆起した区域に取り残された旧線の橋台が、洞爺湖周辺地域エコミュージアムサテライト「昭和新山鉄橋遺構公園」として整備されている。
駐車場にある解説板によると、公園までは散策路があり、駐車場からのルートは遠まわりだが、国道からは一直線の階段100段。
散策路は林のなかの心地よい坂道で、10分もかからず到着。
「公園」というわりには狭いが、解説板やベンチのほかには余計なものがないのがよく、昼なお暗い森のなかに橋台が1対残っていた。
上長和方の橋台は大きく傾き、壮瞥方の橋台は上半分が折れ、半ば地面に埋まっている。
階段からもわかるように、新線とは10~20m落差があり、自然=地球の力の凄さを感じさせられる。
4.壮瞥~久保内
壮瞥駅跡には、壮瞥町役場をはじめとした公共施設や大きな公園ができていて、まったく面影はない。一角にバス待合室と昭和新山の石碑があるだけ。
壮瞥からは道路となり、国道のオーバークロスも平面化されている。
国道の北西側へ移った路盤は、畑地やヤブとなり、久保内まで続いている。
久保内の手前では、路盤が並木道として整備されかけたようなところがあり、少しの区間歩くことができるが、久保内は宅地化されて痕跡はない。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は久保内から北湯沢へ向かいます。
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