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好きな歴史紹介トリップ 『裏切りの家臣』明智左馬助

明智光秀の部将の1人、いや右腕であり頭脳でもあった明智左馬助についての小説を読みました。

ひとたび戦国に生まれて、未だ風月の情けを知らず
朝(あした)に出師(出兵)し、その魁(さきがけ首領)を望み
夕べに兵の運営を策す、
几(机)に寄りて臥竜の術を考え、
鉾(槍)を横たえて、(小脇にかかえて)千里を行く、
いくばくかの名声夢の如し、
人生の終節清明に帰る
(明智左馬助)


明智左馬助渡水図



一戦国中生 未知風月情
朝出師望魁 夕兵策運営
依几臥竜術 横鉾千里行
幾英名如夢 終節帰清明
『明智左馬助辞世漢詩』

明智左馬助の素性については諸説ありますが、先の小説ではこちらの👇説が採用されています。
三宅氏説
左馬助秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)を名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣。また俗伝では、光秀叔父、明智光廉が三宅長閑斎と名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、児島高徳の子孫と称した備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある。

現在の岡山県児島とも関係している説です。


晴明の語源は、「清浄明潔(しょうじょうめいけつ)」という語。 その意味は、文字通り清らかで明るく、活気に満ち溢れているさま。

【名詞】(形動) 空が晴れ渡って物が明らかなこと。空が明らかに澄みわたること。また、そのさま。


多くのゲームにも登場しています。

【明智倫】(俗名、諸説あり)
「嫡女ハ、永禄十二年ノ冬、十六歳ノ時、明智左馬助光春に妻アハセリ。」と、江戸時代に発刊された明智軍記に記載されているが、明智倫(明智岸)は最初、明石城主・荒木村次(父は荒木村重)に嫁いだ。

荒木村重が謀反を起こし、織田信長と敵対したことから、明智光秀が松井友閑らと荒木村重を説得に出向いた際、明智倫は離縁して明智家に戻ったと考えられる。

その為、織田信長による荒木一族の処刑も免れた訳だが、後に、明智倫(明智きし)は明智左馬助と再婚した。

【子孫】三宅重利(諸説あり)
父は明智光春(秀満、光慶、三宅弥平次(左馬助))、母は明智光秀の娘(細川ガラシャの姉)とも伝わっている。
天正10年(1582年)、本能寺の変の時は勝竜寺城の留守居役だったが、家臣の三宅六郎太夫(あるいは姥)に抱かれて京都に逃れ、父の知り合いである町人・大文字屋のもとで育った。
12歳で鞍馬寺に入るも、翌年には叔母の細川ガラシャを頼って細川氏領国の丹後に移り、以後細川家の庇護を受けた(300石を遣わされた)。

のちに細川家を辞去し、父・明智秀満の元家臣であった天野源右衛門(安田国継(安田作兵衛)が改名)の縁により300石で唐津藩(寺沢家)藩主の寺沢広高に仕えた。

元和7年(1621年)には2代藩主によって唐津藩の飛地であった天草を統括する富岡城の城代に取り立てられた(知行は計1万500石)。

元はキリシタンだったが棄教し、寛永14年(1637年)の島原の乱では富岡城代として天草四郎率いる一揆勢と戦った。しかし、本渡での戦いに敗れて敗走し、のち自刃した。
首は一揆勢によって獄門に処されたという。

妻は妻木範煕の娘で、子に三宅重元(藤右衛門)、重信(吉田庄之助)、重豊(加右衛門)、重行(新兵衛)らがいる。重元は寛永20年(1643年)細川光尚に召し抱えられ、以後は熊本藩細川家の重臣として幕末まで続いた。


歴史は皮肉にも繋がっている…🤔🕵興味を持って調べてみるとなんとも言えない気分でした。
まるで天に見つめられているように感じました。

好きな歴史をご紹介トリップ
『明智左馬助歴史話』[完]


参考文献のまとめは後日にいたします。主にインターネットにて調べました。┏○ペコッ

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