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高3生、『陰翳礼讃』を読むにあたり、「夜咄の茶事」の動画を見せてみた


自分が高校生の時に国語の授業で出会ったきり、30数年ぶりの再会。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』


再会といっても、忘れていたわけではなく、高校生のわたしにはっきりとした爪痕を残して、血肉になった文章の一つです。

教材として、教えるのは実は初めて。新教育課程で蔑ろにされている「文学国語」という授業を今年初めて持つことになり、楽しいのと授業作りに時間がかかるのとで、勤務時間は昨年よりかなりオーバー。

「論理国語」と「文学国語」⁉️

「論理」との対比で「文学」を位置付ける感覚には疑問しかなく、わたしが『枕草子』執筆中の清少納言のそばにいたら、「あさましきもの(驚き呆れるばかりのもの)」に入れてもらうようにお願いしたいくらいです。

でも、「文学」だけの教科書が一冊あるというのは、読み物としてなかなか面白く、教科書会社の思いやセンスが出ていいですね😊

授業では、小説も随想も論理的に読むようにしています。

文科省のみなさまへのメッセージ❤️

グラフやデータなんて、一瞬で価値失うものです。社会人になって必要に迫られたら読まざるを得ないものに、青春の貴重な時間を割かせ、進路決定に影響を与えようなんてナンセンスというか、横暴。
大人サイドの「扱いやすさ」のような能力を養成することに高校教育を使ったらダメだと思いますよ。

グラフよりも文学や古典を読んで、美意識を洗練したり、人間の不可思議に圧倒されてうちのめされたりする方が、よほど有意義だとわたしは思います。

だいぶ脱線しました。

『陰翳礼讃』

圧倒的な闇の中、和蠟燭の光だけで食事をしていた時代のことを、思い描くことができる人が、日本中にどれだけいるのでしょうか。

豪華絢爛な蒔絵が施された漆器を手に取り、「夜の脈搏」を手のうちに感じたことがある人がどのくらいるでしょうか?

わたしが高校生のときにだって当然そんな体験はしたことがないのに、谷崎潤一郎の巧みな言語表現によりありありと脳内再生されました。

その美意識はビシッと脳に刻まれ、茶道という美意識の「沼」へ必然的に導かれることになりました。

作家の個人的な体験による、主観的な言説だからこそ、読者の脳内に、鋭く刺さります。

谷崎の偏愛的な比喩表現は理性をふっとばし、感覚こそが真理と言わんばかりですが、物分かりのいい大人が増える現代、そういう強烈さに出会うことの希少価値は近年高まるばかりだと思うのです。

夜咄の茶事 アンの茶道生活
是非おすすめしたい動画です。

動画を視聴したあと、「体験して見たい人!」って手を挙げた高校生は、
英語を中心に学ぶ課程のクラスでは半数以上。
文系の進学クラスでは数名でした。

茶道が、その内容の濃さゆえに、海外からの富裕層観光で注目されるのは当然です。

しかし、その価値がわかり、語ることのできる日本人をちゃんと育てることは、仮初の世のグラフなんか読ませるよりも、ずっと大事だとわたしは思っています。



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