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立てるのは人ではなく法を立てる/仏教

面倒臭い事を避けるためや

嫌われたくない一心で人や自分を立てて

自分の身を守り仏様や法を立てないのは

仏様や法を謗ってるのと何ら変わりありません

こういう人を人でなしと言うのです。


ですので信仰対象というのは正しくないと

大変なことになります。


お前には霊体が取り憑いているから

悪いことが起きる、だから布施しなさいとか

先祖が呪っているからお前はうまくいかないとか

そんな事を言う人を信じてしまったら

結果は言わずもがなであります。


信じる信仰対象✕信じる心=信仰の結果


と教えて頂いたことがありますが

正しい信仰対象でなければ

人生破滅してしまいます。


自分が可愛いあまり間違っている人を見ても

それは人それぞれ信仰心が違うからとか言う

信仰者がいますが

法を立てず人を立ててしまうと

間違った道に行きますのでその人が

苦しむことになります。

見捨てているのと何ら変わりありません

直接言わないにしてもこの精神に問題があるのです。


目の前で人が倒れていたら四の五の言う前に

助けるのが人の心です。

誰かに指示を待っていたらその人は死にます。

見捨てる様な心が信仰心なら

何を信じているのか疑問です。


こんな話があります。


お釈迦様に会いに来た沢山の信者さんがいました


お釈迦様は

良く来てくれました、道中 怪我や病気など

  ありませんでしたか?」

  と尋ねられ

一人病気にかかりまして…」

  お釈迦様は

その人の看病は誰かしてるのでしょうか


いや…みんな世尊に会いたいと思う人

   ばかりでしたので病人だけ残しました。


お釈迦様は一向にこう説かれたと言います。


病人を看ることは、私を看るのと同じである

   病人を看護する者は

   私を看護するのと 同じである。

   私も常に病人を看護することを願っている。

   これは最上の布施であって

  これに過ぎるものはないからである。」

   と仰っていたと言います。


この

「病人を看ることは、私を看るのと同じである

  病人を看護する者は、私を看護するのと

   同じである。」

   とは

これは苦しんでいる人の身体にも心にも

寄り添うこの行為 行動そのものが

仏様と同じであり、その場に仏様は見えなくても

そんな行いをしている者の側に

いつも仏様はいらっしゃるのだと

そう言っています。

物理的な距離ではなく心の距離が大切

ではないかと思います。

ですので

この慈悲の心があってこそ最上の布施であると

お釈迦様は言っているのです。


法律だとか会社や組織団体のルールとか

そんな事を優先に考えていたらこの信者のように

私達はなってしまいます。

目の前で苦しんでいたら手を差し伸べる

誰かの許可を待つ必要や

ルール第一に考える必要はありません。

こうやって柔軟に考えていくことも

諸行無常であり

目の前にいる人を救おうと思う心も

諸法無我であります。



どこまでいっても どんな事があっても

どんなに嫌われても

仏様を立て 法を立てていかなければ

仏教徒 信仰者とは言えませんし

本当には人は救われません。


ですので信仰対象というのはとても大切なのです

先ほども申したように儀式、あるいは教団や

会社などのルールを優先することは

真理とは違った方向に進み大変危険です。


もはや現代の宗教は宗教では

なくなっているように思います。

いつも言うように

宗教の宗はこの世の大元である

根源を指す言葉です。


仏教なら仏様であり 教えである法です

それをおろそかにし法を立てずに曖昧な存在で

ある人間を奉ったら宗ではなくなります。

過去の宗教団体の捕まった人達を見れば 

一目瞭然であります。


上の許可がなければ貴方は救いませんとか

従わなければ精神異常だと言って排除する等と

言った愚か者が現実にいる事を悲しく呆れる

気持ちと正直怒りもあります。



ですが

私が出来ることは善業を積み縁ある方に

幸せになってもらう様に日々生きていく他

道はありません。

こうして正しい教えをお伝えし

読んで頂いた方々が少しでも目を覚まし

前を向いて共に歩いて生きたい

そう願っております。


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