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決めつける心は身勝手な欲望から生まれる/仏教

苦しみを理解するのは無理だという方が

最近は多いように感じています。

ですが

私達は1人1人個々で生きているようで

繋がりあった存在だというのが

諸法無我という教えです 。


苦しんだことの無い人はこの世にいません 

ですから自分の体験を相手の苦しみに合わせて

相手の痛みを感じる事は出来ます 。


仏教には病行というのがあるのですが


病気をする度 健康の有難みを感じると思います

病のお陰様で普段の生活や病に苦しむ

人の気持ちが理解出来た事が有り難く

その心が謙虚な姿勢です

これが病行の本質ではないかと思います。


 私達は縁によってしか生かされません

只々病という縁から教えて頂いたんだと思う

素直な心が本当の幸せを生むのです。


この世の人達は1人1人

生き方や性格など千差万別であり

体験している苦しみは様々かもしれません。


ですが感じる痛みや悲しみは

人それぞれ違うようで

そうそう違いはありません。

何故なら

先程申したように1人1人個別で

生きているわけではなく皆

繋がりあった同じ心や命を持つ存在だからです


人の気持ちを理解したいお役に立ちたいと願うと

そういった縁を仏様は持たせてくださいます。

体験したらいつの日か苦しんでいる

人の心に寄り添えば良いのです。


だからわざわざ声高に理解なんか出来る訳無いと

言う意味が果たしてあるのでしょうか?



思いをわかってもらえれば

それは嬉しい事ですよね

苦しみが溶けたような気持ちになります。


ですが

結局の所 理解なんか出来るわけ無いとか

理解して欲しいは

自分の事しか考えてない身勝手な思いを

相手に望む為 当然 心が苦しくなるのです。


理解してもらいたいなら

相手の思いを理解していける自分になる為に

善い行いを繰り返せば良いのです


先ず自分がではなく相手が先

相手の幸せを願えばそんな言葉は出て来ませんし

苦しみも大きくはならないでしょう。


諸苦の所因は貪欲これ本なり

妙法蓮華経の譬喩品第三に書かれてあります。

これはどんな意味かと言いますと

様々に起こる苦の元は私達が求める

貪欲によって引き起こされると言っています。


ああして欲しいこうして欲しい

こんな風に思われたい、されたい してみたい

それを相手に望み 叶わないから心が重くなり

悲しくなりそれを解消するために嘘をついたり

欲を満たすためにまた欲で満たしたり

優しくしたり褒め殺しをして騙すという

悪さをする汚い心が生まれてしまいます。



冒頭に話した通り私達は個々で生きているようで繋がりあった仲間だというのが諸法無我です

これは誰にも否定の出来ない真理であります。


なので嘘をつくとか騙すとかその時点で

この世の軌道から外れているのです

外れても死にはしませんが 

例えばそれは

電車の線路から電車が外れた様なものなので

それで走れるなら構いませんが

とても走れたものでないと容易に想像は

つくかと思います。

ですので心も同じであって

それだと苦が生まれます。


相手を慈しみ温かい目で見て優しい言葉を使い

相手の喜びや悲しみは共にしていく

悪口や酷い事をされた経験や

自分が人に施してきた事も忘れ

只々人様の為に何ができるか考える

これを慈悲喜捨と言いますが

そんな心が誰にでもあると教えてくださいます。

善き行い、つまり人様が幸せになるために

心も身体も使っていくと貪欲はなくなり

汚い心が消えます そんな心すら浮かびません。

これが苦を無くす善き行ないなのです。


まず相手を思いやる心、優しくする

どんな思いでこんな苦しい思いを

しているのかと考えていくこれが大切です。


無闇に人の事なんか理解できるわけ無いと

決めつけている時点で変化を無視した

見方ですので邪見であります。


私達は何処までも高まれる心を持っています

私達は総てを慈しむ心を奥底に皆 持っています

やはり何事も信じる事が始まりです。

正しく見れる社会が一歩ずつ実現する事を願い 

まず私から善き行いを繰り返していきたい

そう思っております。


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