パン

*今回は悲観的な内容が多く自死的表現を含みます。苦手な方、トラウマのある方は閲覧をお控えください。


夜が更けた。自分はどうしても深夜になると気分が滅入り存在価値さえ疑う。早く寝れるようにしたい。どうやら私は人付き合いが上手くないらしい。今話してる人の感情さえ読み取ることが出来ない。相手が何をして欲しいのか、何をすべきなのか一つ一つじっくり考えなければ何一つ分からない領域に達した。そういうことを考える度にドサッという音が聞こえた。多分幻聴だけれど。だけど、どうやらその音は私の体の中に砂の山みたいに積み上がっている。最初は本当に体の中に溜まっている感覚があった。ドサッ、ドサッ。蓄積していく感覚が手に取るようにわかる。

ある日、私は嘔吐した。もうダメだと思った。目の前にあるものはほんの少しだったけれど、容量オーバーからきているものだということは考えずとも分かった。情けなかった。「そんな心弱いの?笑」今までこの言葉をタコが出来るのほど聞いてきて、その度に「いや、そんなことはないよ」と否定してきたけれどどうやらそれは的を得ていたらしい。あとちょっと我慢すればいいから。自分が犠牲になって我慢してればことが済むんだから。あとちょっと。あと少し。大丈夫。この言葉を自分の中でスローガンのように掲げていた。だから本当に無理なことがあってもそれが祟ってやるしかなかった。拒否の仕方が分からなかった。俗に言う「イェスマン」。そんな感情を抱えて生きてきた。

突然、自分がダメになってしまった。何かが音をたてて崩れていくのがわかった。何かはさっぱり分からなかったけれど、砂の山ではないことは確かに分かった。涙が溢れてくる。死にたくなった。周りはその症状を素直に受け止めてくれる人もいた。中には「それ」だということを教えてくれた人もいた。そんな予感はしていた(検査も何もしてないから確定な訳では無いけど)。でも多分違うだろう、ただちょっと疲れてるだけだろう。と思ってた。何もかもが上手くいかなかった。勉強も、人付き合いも。ペンを握って教科書を開けば右から左に流れていくばかり。何か話そうとしたら言葉のすれ違いを生んで相手に迷惑をかけて、イラつかせるばかり。もうそんな人生が嫌だった。自分のことを必要としてくれている人がいるのは正直分かっていた。ただ、その人たちに迷惑をかけたくなかった。きっと涙を見せればその人達は駆けつけて何があったのかを聞いてくれる。厄介なことに私は彼らの優しさに裏を探ってしまう。彼らが絶対に思っていないであろうことを考えてしまう。怖かった。だから、そんなことを起こす前に楽になった方がためになると思った。

趣味だった音楽を聴くこともままならない。ぼーっとする。そんな中で私は「人としての死」を感じた。痛くもない。痒くもない。ひたすらに苦しくて考えることもできない。

なにか食べようと思った。幸い、食欲はあり1つの救いを見つけたような気がした。1口食べる事に涙が出てきた。最近流れていたような涙ではない、希望に満ちた涙。美味しかった。何のアレンジもない普通のスティックパンだった。私の好きなチョコチップが入ってるわけでもなかった。ただ1つ分かることは、生きていて良いと思った。ゲーテは「涙とともにパンを食べた者でなければ人生の本当の味は分からない」という言葉を思い出した。自分が人生の味をわかってるなんて付け上がるつもりはないけど、なんとなく許された気がした。

今、ある程度は落ち着いた生活を送ることが出来ている。そいつはひょっこり顔を出してきてはどうしようもないことをして逃げていくんだけど、それの対処も難しいが少しずつできるようになってきた。あの日食べたパンが無ければ私は今頃何をしていたのだろう。考えたくもないけれど、生死さえ怪しい。ただ結果的に自分は今生きている。何とかやっている。大丈夫だよって言われながら生きている。だから私も誰かに大丈夫だよって言葉をかけてあげたい。それはある種呪いの言葉みたいになってその人から離れることは無いかもしれない。けれど、その呪いの言葉が私にとって生きるための道標だったことを忘れないで欲しい。

「大丈夫だよ」


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