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”本気の応援”を負けた理由にするなよ|応援論争から宗教と道徳を考える

どうも、草冠です。
今回は4,900文字書いちゃいました。
熱くなり過ぎてしまいましたな。

↓そして軽く宣伝↓

パチンコ暗算ポストが地味に伸びています。

はい、と言うことで…

旬が過ぎた話題ではありますが、今年(2023年)の甲子園は慶応が仙台育英を大差で破り優勝したことは皆さんも知るところじゃないでしょうか。

当人たちにとっては本当にただただ嬉しい瞬間だったり、悔しい瞬間だったことだと思います。

そんな中、この試合に関して、というより慶応勢の応援についてある論争が起こりました。

まぁ

皆さんも聞いたことはあるかもしれませんが、この論争をふと、最近やっているバレーの日本代表戦を見ていて思い出したんですよね。

どっかで見たことある?

人の意見というのはあってしかるべきで、むしろないと世の中は前進していきません。

ですが、この論争に関しては僕の中では圧倒的に慶応は悪くないという結論がバレーボールの試合を見ていて出てしまったのです。

何故なのか。

それを今日は皆さんにお伝えしていきたいと思います。


本気の勝負

本気で勝負している人間は基本的にみんなかっこいい

そもそもの話。

それにすべてのエネルギーを注ぎこみ、人生のうちの大半の時間を一つの目標達成の為に費やし、たった一つの「〇〇一(〇〇は世界とか、日本とか、高校)」という称号をもぎ取る。

これをやっている人間は例外なく、かっこいい。

そうそうできるものではない。そんな事。

尊敬の対象でしかないんだよ。

それだけのことを彼らはやってのけている。

いやもう本当に、もしもちょっと邪な気持ちを出して、

「このスポーツならプレーヤー人口も少ないし、サッカーとか野球に比べたら簡単に日本一を狙えそう」

とか思ってマイナースポーツの分野に好きでもないのに参入して日本一や世界一を目指す人間がいたとしても、

それはマーケティング的には合理的だし普通の人間ならそれをしない。

そういった点で結論としてはシンプルにすごいしかっこいいと言える。

僕にそれをできるか?いや、できないしやろうとも思わない。

だから僕に限らず、読者のあなたもそう思うだろう?

いやだからね、すごいんですよ。何かで「No.1」を目指そうとする人間っていうのは。

人間は一人でNo.1になることは難しい

そして、プレーヤーはプレーヤーだけではなかなか「No.1」は目指せない。
というのは、必ずサポーターとなる人間が必要になってくる。

もちろん一流選手になれば、トレーニングや食事の段階からプロのサポーターが付き、彼らのパフォーマンスを最大限に発揮するために本気で勝負をしていく。

もしかしたらサポーターなしで頑張る人もいるにはいるかもしれないが、それこそ、食事は誰かに作ってもらっているかもしれないし、もし仮に一人で家事やトレーニングをこなしていたとしても金銭的な支援をしている人間がいるかもしれない。

金銭的な部分までも自分でカバーしていたとしても試合に出れば応援してくれる人がいるはずだ。

仮に完全アウェー状態の試合であってもベンチにいたり、なんやかんやで絶対に一人ではない。

そう、極論、人間は一人で行動できる生き物ではないし、一人で何かを成そうとすべきでもない。

ここまで言ってしまうと話が飛躍しすぎるので、この話はまたの機会にしようと思いますが、応援してくれる人がいない人は絶対にいないという事なんです。

そこで話は戻りますが、甲子園の決勝戦、慶応が優勝できたのはもちろんプレーヤーの実力という側面もありますが、応援も本気で勝負をしていたからということに他ならないのは確かでしょう。


アンチの中からは、

相手のミスのときに慶應が盛り上がるのひどい。精神攻撃込み、て感じ

慶應の応援、ストライク入っただけで歓声上げないで。そういうのは9回とか最後の守りにすることだよ。

慶應、甲子園でそれだけ観客席占領して仙台育英攻撃のときにそれやったらダメでしょう。指示とか選手同士の声聞こえなくなるから、フェアじゃなくなる。

慶應の応援団は相手にリスペクトが感じられないよ。

という声。

ここまでの僕の意見を素直に納得してくれたのなら、これらの意見には、真向に反論できると思う。

「いやいや、精神攻撃も立派な戦術の一つだろうが。フェアも関係ない。この子達がもしも世界に旅立ち戦うようなことがあって、応援が相手一色だった時にも絶対に同じ状況になる。そん時にオマエ等もう一回炎上できんのか?」

ってな具合だと思います。僕はね、こう思いましたよ。

「おう、やってやるよ!」

とか言ってもう一回本気で炎上させられるならそれは素直にすげーと思います。(笑)

けどこのアンチの中にそれをできる人間は100%いないでしょう。

なぜならサポーターの重要性を理解していないのだから。

世界の戦いになれば、ホームは”何も聞こえなくなる”程の声援に包まれる

実際、バレーボールの日本VS.スロベニアの試合を見ていた時に感じた事。

日本はこの試合に勝てばパリオリンピックへの切符を手にできるという割と岐路に立たされた状況。

試合場所は代々木体育館(かな?)で応援席にいるのはほとんど日本人。

体育館の広さなんてどれだけ大きい体育館でも高が知れています。

空間も閉鎖的で、サポーターもギチギチに詰められていて、そしてサポーターたちはみんなオリンピックに出場してほしいという思いでいっぱいなのでボルテージはマックスです。

甲子園で優勝してほしい高校生たちもなかなかのものだと思いますが、大人が出せるエネルギーは意外にあります。

そもそも考えてみてください。

甲子園という広大で、開かれた空間と比べて、体育館という限られた閉鎖的な空間、どっちがすごい勢いの応援になるかは言うまでもありません。

そんな中、相手のサーブミスで日本の得点になったら会場は一気に沸き上がります。

そりゃ相手がミスしてくれたおかげで一歩オリンピック出場に近づけてめっちゃくちゃうれしいですからね。

ですがそれに対して相手は「うるさい!精神攻撃だ!」なんて事はもちろんしませんし、世界の試合ならこうなっても仕方ないと、画面越しに応援しているサポーターも見守るはずです。

それに、これは何もスポーツの世界に限った話ではない。

人間普通に生きていればアウェーに乗り込んで本気の勝負をしないといけないときは必ず来るんです。

一般ピーポーが本気になる瞬間はいくらでもある

勝負の瞬間がない人生なんて絶対にない。

スポーツ選手はその瞬間を自覚しやすいってだけの話で、一般人にだってどうしても本気でやって乗り越えなきゃいけない瞬間があるって事です。

プロジェクトを立ち上げて色んな人に助けられながら最後に製品のプレゼンテーションをする。

社運を賭けたプロジェクトならもうその本気度はスポーツ選手の世界の試合に並ぶほどと言っても差し支えないでしょう。

顧客へ行うプレゼンテーションの際に様々な質問が飛んでくる。

応援という名の援護射撃。


これに待ってましたと言わんばかりに想定Q&Aからスパッと答えを返していく。

こういうやり取りが社会の中で行われているのです。

行われているからこそ、社会は発展していくわけなんです。

プレゼンテーションスキルが勝負を決める場合ももちろんあります。

スティーブジョブズはそのいい例でしょう。ですが、応援が勝負を決めてしまう事だってもちろんある!

誰でも理解できるこんなことがわかっていれば、そんな慶応の論争なんて起こるはずがないんだ。

それなのに起こるというのは、やっぱり言い争っているのは若い、それこそ高校生の世代が言い合ってんじゃないかなと思わざるを得ない。

もしもまともな大人がその論争に参戦していたのだとしたら僕は真剣に日本を憂う。

本気で幼少教育から、こう言うとあまり良く無いのかもしれないが、「開国前の日本のような、修養に重きをおいた教育をすべきだ。」と、私は思うのです。

僕の真剣勝負

僕がこれまで四半世紀生きてきて、「真剣勝負をした」という経験は言うても数回程度です。

いや、こんなのも後になれば笑い話で、この先もっと責任重大な真剣勝負をしなければならないと思ってはいます。
(なんならこのnoteだって真剣勝負)

勝負をする側に立った時、もちろん応援はとても嬉しいし、相手の応援が相手のバフを通り越して僕へのデバフだったとして、勝負に負けたとしても、周りが何を言おうが「負けた」という事実は変わらないんです。

寧ろ、「その勝負の本質は応援の質にあったのかもしれない」と言う事を学び、対策手段を検討して行かないといけない。

僕なら、そう思います。

世界の試合でも自分のペースが揺らぐことのない強靭な精神力を鍛える

とか、

どんだけうるさい中でも通るサインのシステムを考える

とかね。

もちろんお金をたくさん投入して応援部隊を連れて行くのも一手でしょうね。

それを知ってか知らずか宗教では最終的には精神を鍛えることが多い

ですが、個人を鍛え、どこに行っても、どんな状況になっても自分のパフォーマンスを100%発揮できる状態にする事を目標にすれば、やはり精神力を鍛えるのが一番でしょう。

スポーツでも仕事でも、予想外のアウェーで戦うことになる事はしばしばあります。

毎回、そうなってしまうと負けてしまうという、「ホームなら最強なのに、アウェーだとポンコツ」みたいな人材には限られた選択肢しか与えられません。

適材適所と言えば聞こえはいいですが、本人は世界で戦いたかったのに、国内のみを担当させられるハメになるわけです。

こんな時に必要なのが個としての精神力です。

精神力は物理的な力と違い、集団形成された精神力にでさえ、個の精神力が勝る事だって容易にある。

この事を認知した上なのかどうなのかはわかりませんが、古くからある宗教というのは、己と向き合い、精神の在り方を認知し、それを高めていく事に大変な重きを置いていました。

大義名分が隣人を助ける事であっても、その精神を作ったのは神や仏だったとしても、今の僕の精神を認知できるのは僕です。

その修行として滝行やらなんやらを沢山やるんですね。

自分と向き合う方法はいくつもありますが、そうやって自分と向き合う事で、強い精神力を作り上げ、どんな事にも動じず、自分のパフォーマンスを最大限発揮できるようになります。

こう言う事を知ると、本当に今の日本人は、宗教を通して自分との向き合い方を学んだほうがいいと思える。

危ない宗教も世の中沢山ある。

僕もつい最近までは「宗教」というワードが出てくるだけで拒絶していが、やっぱり仏教儒教その他多くの宗教の考え方は取り入れても悪く無いもんだと思う。

なぜならそういった教えは、小さな社会単位で見れば良くなる方向に働いてきたシステムだから。

時代が進んでも脈々と受け継がれてきたこうした考え方は今も十分使えるわけで…

てなわけで、宗教的観念がない家庭で育つ子の多い今の日本では、やっぱり考え方や、精神といった部分で拙い印象を受ける。

社会に受け入れられるかどうかはわからないけど、こうした宗教のいいとこ取りした「道徳」が学べる、身近になれるカフェとか、勉強スペースとか作りたいですね。

最後に

かなり取り止めのない記事になってしまいましたが、最後の意見は、皆、自分以外の人の気持ちを考えて、行動に移せればこんな論争は起きなかったのにって事です。

道徳を学ぶってそういう事だと思いますし、もっと深く突き詰められれば自分の精神にも出会う事ができると考えています。

結局の所、自分を顧みて、他者に意識を配る事が大切なんです。

いつも言ってる事なんですが。笑

利他主義である事、それを為すために道徳を学ぶ。

そして道徳の本質を学ぶために宗教を学ぶ。

ハードルが高く見えるので、そのハードルが少しでも下げられる仕組みがあればいいなぁと、思う今日この頃でした。

はい、ここまで読んで頂きありがとうございました。

次回の記事は、経営についての持論のお話。

現場主義ってよく言いますよね。

本当に大切だと思いますが、具体的に何が大切なんでしょうか。

皆さんはわかりますか?

次回の記事では僕の経験から得た現場主義の大切さについて語らせていただきます。

最後には僕の恋愛話も…?

前回の記事はこちら


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