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メルカリ小説(資産家 真知子編)第二話『イヤープレート』

メルカリでの売買の醍醐味として、商品自体に関し売り手や買い手の物語がついていることがある。そして、運が良ければその物語に触れることができる。

真知子(まちこ)は午後五時半に「本日の業務終了」の文字を共有カレンダーのチャット欄に送信し、パソコンを閉じた。真知子がパソコンを閉じるのとほとんど同時にアシスタントの石川から携帯にメッセージが入った。「社長、お疲れさまです。明日は十時に出社されるとのことですので、ご自宅まで車を回しておきます。それではまた明日もよろしくお願いします。」と書いてあった。真知子からの連絡を、まめにチェックしている石川らしい速度である。石川は会社にいるのだろう。

彼女は真知子の経営する化粧品会社に中途採用された四十代の女性社員である。彼女のいるポストはアシスタントという名だが実質的には秘書と呼んだ方が正確である。石川の業務は真知子の予定管理から新製品発表パーティのケータリング手配など多岐にわたる。入社してからまだ一年も経っていないものの、まさに痒いところに手が届くような働きぶりを見せてくれる。以前、特に指示をしたわけでもなかったのに真知子が出社しない日の会社の状況を細かく報告してくれたのはありがたかった。石川からの報告により、社長である真知子が現場にいないために起こるトラブルや統率の乱れを察知することができたのである。

 真知子は石川の、ギブソンタックにした髪型を思い出しながら、「ありがとう。よろしくおねがいします」と返信した。スマホを机の上に伏せて、ゲーミングチェアの上で軽く身体を伸ばす。ぎしぎしと背骨が鳴った。

この家には普段真知子が一人で住んでいるため、静かな家が、今日は心なしか騒がしい。今日は娘である美佳(みか)が孫を連れて真知子の家に来ているのだった。美佳は、おそらく泊まる算段にしているだろうから夜は晩御飯を作ってやらなければならない。

真知子が立ち上がり、部屋から出ようとするとクロゼットが目に入った。クロゼットにかけた服の下に見慣れぬ黄色い紙製の箱があった。箱の上には花柄のワンピースが半分かぶさっていた。今まで黄色い箱が見えなかったのは、このワンピースに隠れていたからなのかもしれなかった。箱を手に持つと重さがある。この部屋には誰も入ってこないので、おそらく置いたのは真知子自身である。なんだろうと思い、箱を開けると、さらに白色の箱が入っていた。その白色の箱を目にした時、真知子はがつんと殴られたようなショックを受けた。あのことを忘れていたなんて。これまで必死に生きてきた。気がついたら、もう三十年近く経っていた。他の誰もが忘れても私だけは忘れまいと、そのために自分の部屋に置いたのではなかったか。真知子は動揺して、二分ほど立ちすくんでいた。

 階下から孫娘の泣き声が聞こえた。その声で真知子は、はっと我に帰り、手の中の箱を見た。思い入れがありすぎて捨てることはできなかった。だが、忘れて粗末にするくらいなら必要とする誰かに譲った方が良いのではないか。真知子はふと美佳がフリマアプリをよく使っているという話を思い出した。

真知子は箱を手に、一階へ降りた。リビングでは美佳が孫娘にミルクを与えているところだった。一段落したころを見計らって、真知子はキャビネットの上に置いた白い箱を指さし、美佳に声をかけた。
「これ、あげるから売っておいてくれる?」
「いいの?ありがとう」
美佳はあやしていた孫娘をそっとベビーベッドに寝かせた。そのまましばらく孫娘が寝入ったかどうかを観察していた。
「やっと寝たよー」
美佳は肩を回しながら真知子に話しかけた。
「お疲れ様」
真知子は苦笑した。そして、美佳はキャビネットの上の白い箱を早速開けて
「おっ。ヘレンドのイヤープレートだ」
と歓声を上げた。美佳は出品のためイヤープレートや外箱の写真をスマホで撮り始めた。真知子がベビーベッドを覗くと、孫娘はお腹がいっぱいになって落ち着いたのか、小さな寝息を立てていた。美佳はスマホを操作しながら、
「ねえ、ママ。このイヤープレート、私の生まれた年の一年前のじゃない」
と聞いてきた。
「そうね」
「誰かの記念の年とか?」
美佳の言葉に、真知子の目が泳いだ。

 このイヤープレートを買った日、真知子は子どもの産着を買うため夫と二人で百貨店に来ていた。産婦人科の医師から、お腹の子どもは女の子だろうと言われていたが、黄色の産着ばかりを購入した。真知子はピンクなどの赤系統の産着を購入したかったのだが、夫が「性別は生まれてみないと分からないんだから黄色を買った方が良いんじゃない?」と夫の母親に入れ知恵されたためだった。真知子が帰ろうとしたところ、夫は
「せっかく百貨店に来たんだから、何か子どもの誕生の記念になるようなものを買おうよ」
と半ば強引に宝飾品売り場に向かった。真知子が妊娠九か月の大きな腹をさすりながら、
「ちょっと、気が早いんじゃない」
と苦笑すると、夫は
「生まれる前に買う方が、『君が生まれるのをこんなに楽しみにしていたんだよ』と言えるだろう」
と言って聞かなかった。真知子は、夫の父親が夫の生まれる前に腕時計を買っており、成人式にその時計をプレゼントしてもらったという話をしていたのを思い出した。
 真知子は売り場を早足で歩き回る夫に付いていけず、途中から同じ階の喫茶スペースで待っていた。
「ごめんごめん。時間かかっちゃってさ」
と大声で言いながら、夫は真知子の席に近づいてきた。夫が買い物をするのには二時間かかった。真知子がたまたま持ってきていた小説もほとんど終わりに近づいていた。夫の、この熱意が継続して、子どもが生まれてからは子煩悩になってくれればいいけど、と真知子は思った。夫は散々迷った挙句、ヘレンドでイヤープレートを購入したらしい。夫が得意げに白い箱を開けると、青色の布に包まれてプレートが現れた。中央部分には金細工交じりのネズミの絵と緑色の文字で『1996』と書かれていた。一九九六年の干支が子(ね)なので、ネズミがモチーフになっているのだということが付属のパンフレットに書いてあった。
「ヘレンドは今年からイヤープレートを作り始めたらしいんだ。僕たちの子どもと同じ年にスタートするなんて何か縁を感じたよ」
「ありがとう」
と言って、真知子は微笑んだ。鼻息を荒くして説明する夫にイヤープレートの値段がいくらだったのかは聞けなかった。

 その次の妊婦健診の日、「もうすぐ予定日ですね」と医者がカルテを見ながら話しかけた。真知子は苦笑した。「お腹が重くて困ります」と応えて、エコー室のベッドにゆっくりと横たわった。真知子は最近、胎動が少ないように思っていた。予定日が近いということは、もう胎児が大きくなっており、動くための場所的余裕も少ないのだろう。世間話をしながら、医者がお腹の上からいつものようにエコーをし始めた。エコーに画像が写ってしばらくした後、医者は真知子のお腹にぶるぶると振動する機械を当てた。医者は横にいた看護師に耳打ちし、エコー室が急に騒がしくなった。真知子が「どうしたんですか」と尋ねると、医者から「誠に申し上げにくいのですが」という前置きから始まる説明を受けた。お腹の子どもは既に亡くなっており、とにかく母体から外に出さなければならないということ、母体の負担軽減のため自然分娩をしなければならないことを伝えられた。真知子はショックのあまり気が遠くなりそうになった。
 真知子はその場で陣痛促進剤を打たれた。陣痛促進剤を入れてから十時間後に子どもが出てきた。
 産みの苦しみは通常の分娩と変わらないはずなのに、産声の上がらない出産だった。助産師が「女の子ですよ」と静かに告げた。真知子と夫はその子に李佳(りか)という名前をつけようと思っていた。子どもは真知子がまともに顔も見られないままに看護師に取り上げられて、遺体として処理され始めた。真知子は産院に駆けつけた夫を見た途端、謝った。夫は謝らないでくれと言ったが、真知子は謝るのをやめられなかった。目の前にいる夫ではなく、死んでしまった子どもに許して欲しいと思っていた。だが、その謝る対象である子どもはいないのだった。最近胎動が少ないと気が付いていたのに、病院に行かなかった。思い返せば、後悔しかなかった。あの時もあの時も助かるチャンスは何度もあったのになぜおかしいと気づいてあげられなかったのだろう。娘は肌の色が白くて透き通るようだった。死んでいるということを知らなければ眠っているだけのように見えた。

 退院後、真知子は文字通り泣いて暮らした。母子手帳の記録欄の死産という箇所に丸がつけられていた。
 赤ん坊と共に産院を出るつもりが、真知子一人で帰ってきた現実が真知子自身にも信じられなかった。家の中には黄色い産着とベビーベッドが所在無げにあった。1LDKのマンションに暮らしていたので、嫌でも一日のどこかでベビーベッドが目に入った。「また子どもができたら使えばいいじゃないか」と夫が産着を捨てずにいることが信じられなかった。
再び妊娠し、美佳が生まれて、戸籍謄本を取った時に真知子は激しく動揺した。謄本には、一年前に死んだ李佳の記録が残っていなかったのだ。その場で区役所の職員に尋ねたところ、死産届は戸籍に残らないと知った。死産した子どもの戸籍が作られないのは、戸籍を作ったところですぐに消除しなければならなくなるという事務的な理由からだろうが、堕胎した記録が残っては将来母親が困るという配慮もあるのかもしれないと真知子は思った。記録の残らないわが子。だが、李佳はあの時確かに真知子のお腹の中で生きていたのだった。李佳のために購入したベビーベッドや産着が美佳のために使用されていく中で、イヤープレートだけは新品のまま真知子の手元に残っていた。夫もイヤープレートについては何も言及しなかった。気まずいためではなく、この人は単に忘れているのだと真知子は気が付いていた。イヤープレートをクロゼットにしまいながら、誰もが忘れても私だけは忘れまい、と真知子は心に誓ったのである。

 母親から衝撃的な告白をされた美佳は何と言えば良いのか分からなかった。母親に対して「気の毒に」というのも違う気がする。大人になると子どものころは知らなかったような親たちの事情が明らかにされる機会が増え、戸惑うことが多い。「驚いた」と美佳が正直に感想を述べると、真知子はそれ以上言うこともないようで夕飯の支度を始めた。美佳も再びイヤープレートを出品する作業に戻った。おそらく真知子は自分の手では他人に譲ることができず美佳に依頼したのだろうと美佳は見抜いていた。

 ヘレンドのイヤープレートであれば元々購入した時には二万円ほどはしただろうが、三十年近く昔のものであることと箱の保存状態が良くないため、美佳は相場よりも安く価格を設定した。そうすると、出品してから一時間ほどで売れた。美佳はいつものようにスマホのメモ帳アプリの中に作成したテンプレート文をコピーアンドペーストした。
「はじめまして
みかぽんと申します。この度はご購入いただきありがとうございます♪」
 すると、相手から
「はじめまして、ソレイユと申します。購入させていただきました。来週娘の結婚式です。毎日仕事から帰って眺められたら幸せです。」
 というコメントが返ってきた。

 購入をめぐるやり取りの中でこのような文章が来るのは珍しい。匿名でやり取りが可能とはいえ、見ず知らずの人に自分の情報を伝えてくる人は少ない。美佳は打ち解けたような気持ちになった。
「娘さんの結婚式楽しみですね。間に合うように早めに発送します」
と返信すると美佳は嬉々としながら、緩衝材を巻いて発送の準備を始めた。   ヘレンドのイヤープレートは元々真知子のものなので、美佳は真知子に文章を見せた。
「これ買った人、来週娘さんが結婚式らしいよ」
「そうなんだ」
真知子は蒸し豚に付ける葱の中華風ソースを作りつつ何でもないふうに答えた。そうなのか。生きていれば、もうそんな歳なのか。よく考えれば美佳にも、もう娘がいるのに改めて時の経過を思い知らされた気分だった。
「よかった。幸せな人のところへもらわれていくのか。よかった」
そう言いながら真知子はひとりでに笑みがこぼれてくるのを止められなかった。
 真知子は購入者の娘の結婚を祝うために何かできないかと考えた。その結果、自社製品のサンプルをおまけに付けることを思いついた。美佳にその旨を提案したところ、美佳は
「いや、プリプラのサンプルって、普通は嬉しいかもだけど、買ってくれた人の肌に合うか分からないじゃん?おまけは嬉しいけど、もし合わなかったら買ってくれたひとにとっては要らないものを送っちゃうことになるからやめといたら?」
 真知子は娘に反対されるとは予想外だったので
「でも、娘さんの結婚式って聞いてしまった以上は何かできないかと思ってしまうんだもの」
 とむきになってしまった。
「だったらメッセージカードを添えるのはどうかな」
と美佳が伝えると一旦暗く沈んでいた真知子の瞳が輝いた。
「それなら良いかもしれないわね」
真知子は文房具をしまっている箱から小さなメッセージカードを出した。メッセージカードには小さな花の絵が散りばめられていて女性らしいデザインである。沢山メッセージの候補を考え、下書きをしたが、どれも感情がこもり過ぎて初対面の人に渡す手紙ではない仕上がりになってしまった。真知子はそれらを片端からボツにした。昔なら許されたかもしれないが、今はいきなり精神的な距離を詰められると不愉快に感じる人もいる。また、まさか死産した娘が生きていれば同い年ですなどと伝えるわけにもいかない。せっかくお祝い事があるというのにお祝いムードに水を差すというのは真知子の意図するところではなかった。むしろ、見たこともない購入者の娘の結婚を真知子は心から祝いたいと思っていた。迷った挙句、「娘さんの結婚式楽しみですね。この度はご結婚おめでとうございます。」と無難なひとことを書いたメッセージカードを添えて商品を発送した。たかが物ではあるが、思い入れのある物なので、真知子はまるでイヤープレートがお嫁入りするのを送り出すような気持ちになった。
「どうかお幸せに」と願った。
(5655字 原稿用紙換算15枚)


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