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翻訳できないわたしの言葉 展

分かりやすいって親切だ。
でも、分かりにくいって面白いことだと思う。

分からなければ、分かろうとするしかないし
相手を自分のものさしや常識の範囲内で測ろうとしていた気が付く
きっかけにもなる。

迂闊に生きていると
自分のものさしが合っていると思いがちだ。

自分と感覚が違うものは
「変」や「理解できない」で片付けてしまうことも多々ある。

実際、この展覧会では、有名な絵画もないし、現代美術のインスタレーションが多く美術館が好きな私にとっても何だかよく分からない展示だった。

けれど、見方を変えるとそれはチャンスだ。
つまらなかったで帰る前に、自分の心が何に反応したのか見て欲しい。

理解できないものに対して「ぷいっ」としてしまう自分は
自分が狭い価値観の中で生きていることを教えてくれる。

ただ無邪気に遊びたくなるような作品に共感した時には
もっと感覚を開いて遊び心を大切にしたい自分の本音に気が付くことができる。


作品それ自体を理解することは難しくても
(そもそも人の事を完全に理解できるなんて思ってもいないけれど)
感覚は違っていても、自分とは違う感覚で世の中を見ている人がいる
と分かっただけで、この世界の豊かさに触れることにはならないか。

作品を見ることは何かを分かりにいく、もしくは知っている事を確かめに行く
ことだけではない。

目の前に現れた他人の表現に対し、自分の心の反応を面白がりに行くところでもあると思う。

答えは持って帰れない。
誰も教えてくれない。

けれど、この1日を境に自分に新しい視点が舞い降りて
既にある何かとある日突然結びつくことだってあるのだ。

材料はたくさんあった方がいい。
そのほとんどが特に役に立たないものになる可能性だってある。

けれど、自分の中にたくさんの価値観がアーカイブされていることは
考えただけで面白そうである。

そんながいたらすぐにでも会いに行って友達になりたい。
たとえ、理解ができなくても。

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