昨夜までは憎たらしくて仕方がなかった。どうしようもない怒りが込み上げてきて、隅々までそれに支配されていた。執拗に攻撃して、お前が悪いと畳み掛けていた。 しかし本当は分かっている。先に仕掛けたのはこちらの方だ。怒りが噴出したのは最後の1ミリを相手が注いだだけ。内側に怒りを溜めていたのは私自身だ。 感情は連鎖する。怒りをもって接すれば、相手から怒りが返ってくる。そんなことも忘れてしまうほど我をどこかに置いてきた。どうしようもない気持ちを一旦、感情の踊り場に置いて、暴れてい
結婚して16年の間に8回の引っ越しをした。 2年で全く使わなかったものを手放して本当に必要なものだけを 見定める。 必要だけれど次の場所へは連れていけないものもある。 泣く泣く手放したところにできた空間には また新たな何かが入ってくる。 それにしても私はよく捨てる。 少し捨てすぎるクセがある。 なくて困ることが多々ある。 けれど、それが創造のはじまりだと思っている。 不足していることが私たちの創造を目覚めさせる。 限られたものの中に可能性を見出す契機。 深い創造のはじ
喉が痛い朝、学校に行けないでもないが、積極的に行きたくもない。 寝ているほどでもないが手持ち無沙汰な時間に、受け身でない濃密な時間が詰まっている。 お腹が空いている時に、料理本を読んだらとてつもなく幸せだという話とか、風邪でもない私に「龍角散いる?」という気遣いだったり。仕事をしている側で何をするでもなく、時折ぽつりぽつりと話しかけてくる。 この何でもない時間。 学校で今日何があったとか、明日はどんなことがあるかとか 日々の伝達ではない、とりとめのない話。 目的のない話
紅葉の季節が訪れ、普段の散歩道が、まるで画家のパレットをこぼしたかのように鮮やかに染まっている。赤、黄、橙、そして葉に宿る微かな緑。それぞれの色がひとつひとつ、まるで語りかけてくるかのように、風景の中に佇む。 ひと葉、またひと葉。近づいてみると、同じ赤の中にも濃淡があり、太陽に透かされると、光が内側からそっと息づくように輝きを増していく。黄色い葉は、まるで陽の光そのものが凝縮されたかのように黄金色に燃え、オレンジ色の葉は温もりを含み、心までそっと包み込んでくれるようだ。
朝、息子がバタバタと玄関に向かっているのが聞こえた。「おーい!歯磨きした?」と声をかけると、「あ、忘れた!」と返事が返ってくる。「いやいや、部屋もそのまま散らかしっぱなしだよ!」と、ついツッコミたくなる状況だ。そこに、夫も気づいて「お前、何回言わせるんだ!」と息子を追いかけ、玄関で説教が始まった。 その言い方がどうも気になり、私の心にクスッと笑いが混じる。「また同じこと言ってるなぁ」と、夫がまるで朝のルーティンのように同じセリフを繰り返しているのだ。それに対する息子も、少し
私の身体は、両親の命を受け継ぎ、先祖の物語が織り込まれたものだと、ずっと思ってきた。私をつくる細胞は遠い昔からの連なりの果てにあるのだと信じていた。しかし、先日、ある「光景」に出会ったことで、私の中にまた新たな「私」が生まれた。 「仕立て屋のサーカス」という名の即興舞台、そこには予定調和のない世界が広がっていた。暗闇の中、ふと私の隣で、名の知れた女優さんが音楽に揺れ、軽やかに身を預けている。ステージは次に何が起こるか分からないが、その不確実さを愉しみ、今この瞬間を喜びながら
ここは本当に都心かと思うほどの場所がある。 その場所に1年半通い続けて少し分かった事がある。 そこはほとんど人はおらず、木々の間から移りゆく光が眩い静かな場所。 緑に包まれ、ふかふかの大地に思わず素足で歩きたくなるような場所だ。 季節によって、天気によって、光のさし方や風の吹き方によって刻一刻と変化するその場所は、モグラの出てきた土の盛り上がりや見たこともないようなキノコなどにも出会える。 人間社会しかこの世に存在しないかのような現代の暮らし方の傍に、地球には多くの生き
私は20代の頃、公立の美術館で働いていた。 大学で美術教育を学び、自分の心で感じ、頭で考え、創造的な生き方ができる子供たちをアートを通して育てたいと思っていた。 新設の美術館だったので、準備室の段階から6年間、やりたいと思ったことは全部やったし、大抵のことは企画すれば通った。今まで貯めてきた自分の引き出し分全部やった。 開館から5年が経ったある頃、勢いのあった全体の雰囲気が次第に次のフェーズに動き出した。それは、立ち上げてきたものを滞りなく続けていくことだった。 私は頭
秋の涼しさを感じるようになり、夕方の17:30頃には外に行くようにしている。 ただ夕日を見るために。 近くの公園に行き、芝生の上に寝転び、空を見上げるだけで いつもとは違った風景が目に飛び込んでくる。 寝そべってみると地球は本当に丸いんだな、という当たり前の事を見せてもらえる。 地球と宇宙は延長線上にあるような気がしていたけれど、 地球も宇宙そのものだったな、と思ったりもする。 昨日は皇居ランから帰ってきた息子に声をかけて 一緒に出かけた。 ほんの10分ほどの沈黙の時
ゲリラ豪雨というものに今年は何度か降られた。 笑ってしまうくらいずぶ濡れのまま、走って帰る事が何度かあった。 昨日もよし、今ならいいぞ!と自転車で出かけたらお店を出た頃にはポツリ。 あっという間に土砂降りになってしまった。 家までの時間は10分。 何度も顔を拭っても前が見えないほどの雨。 ここまで降られると妙に楽しくなってきて、変なテンションになってくる。 雨を楽しめるなんて子どもみたいだ。 ばちゃばちゃしても平気って心が開かれてくる。 あんまりのひどさに帰ったら子ど
今年最も楽しみにしていた展覧会に内藤玲さんの 「生まれておいで 生きておいで」がある。 東京国立博物館での展示は終わってしまったが、銀座のエルメスメゾンでは1月まで、その後再び博物館へと戻っていく。 どのような展示だったのかは実際に観て感じてほしい。 言葉ではうまく説明ができないからだ。 何がいいとか、何が美しかったとか そういった類の言葉は浅いところでしか感じていない気がして、 これはずっとこれからも共に私と生き続ける作品だと思った。 問いは深いがシンプルだ。 「こ
今の私にこういうのがもっとあれば〇〇なのになー、と感じてしまう時。 「ない」という欠乏を感じてるのかもしれません。 欠乏は焦りや不安を生み出してしまうので、できれば手放したい。 そんなとき、私はこんな遊びをしています。 それは、今目の前にあるものを順番に言っていくこと。 この写真で言えば、 芝生、 海、 橋、 造船所、 ビル、 空・・・ その内見えるもの全部言ってしまって、それでもよく観ていくと 車が通っているな、 ビルの中にはたくさんの人が働いているんだな、 みんな早
コアエッセンスヒーリングという「人生の学校」で学びを終え、 いくつか変化したことがある。 その一つに決断が早くなったということがある。 迷うことがほとんどなくなった。 何かを決める時も「こっちにしよう」「今はここまでで良しとしよう」 という感覚が取れるようになってきた。 それは、何かを選ぶ時にどっちがいいとか悪いとかは本当はない、 ということが分かったからだ。 何に置いても物事には「ポジ」と「ネガ」があり、そのどちらを大きくして見るかは自由に選ぶことができるということが分
1年間学んできた「心の学校」コアエッセンスヒーリング実践講座 昨日卒業式を迎えた。 1年前、長崎から東京へ越してきて、多くのものを手放してきた。 人との繋がり、リアルのお客様、趣味で続けてきた織物の道具数々など 普段から不要なものなど何もなく、必要なものだけと共に生きてきたのに、 住宅のサイズでさらに厳選しなければならなくなったことに、悲しくて 代わりに何かをそれ以上価値あるものを手に入れたいと思っていた。 朝目覚めれば次に目を閉じ1日がでできるだけ早く終わってしまえば
この夏、中1の息子が1週間持病の検査のため入院した。 私も付き添いで一緒に。 小児脳外科だったのだが、息子は普段は元気そのもの 他の子どもたちは脳性麻痺の子どもが多かった。 みんな子どもと一緒に親も付き添いで入院している。 入院1日目、 失礼を承知で言うが、私は「うちの子はまだいい。」と思った。 発作でしばしば倒れることがあっても通常の生活ができている。 意思の疎通もできる。 自分と他の人を区別して考えていた。 自分には関係のないことだと。 次の日の朝、隣から珈琲の豆
私は買い物があまり好きではない。 できればさっと終わらせたいし、用だけ済ませて効率的に済ませたい。 買い物に行く時にはできるだけ無駄がないよう、メモをして短時間で済ませる。 ついでにやっておくことはないか一度の外出で済むように、流れでどんな事ができるか考えて出発する。 言葉に書き表してみると、かなり効率重視。時短大好き。 こんなにも自分が左脳の人間だとは思いもよらなかった。 けれど、時短をするのは全てはのんびりするためなのだ。 思えば、集中とリラックスを切り替えるのがと