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武士=武闘派ヤクザの前史として古代を考えてみる

言い方に配慮しない日本史 古代編

 今回は古代をやります。正直、前回の
共産主義と、古代と近現代の話に触れると
ヤバそうだから筆名を使っていたりします。
 なので、今回も一応、お断りを入れて
おきます。

・前回共産主義を扱いましたが、私は別段
反天皇とかではありません。現代の天皇家に
対しては、むしろ、引き受け手のなさそうな
ことを引き受けてくださってる、という
ように思っています。

・なので、人によっては不敬とも取れる
ような記述もしますが、貶める意図で
書いているわけではありません。

・古代のことですから、わからないこと
だらけで諸説ありますが、ここでは、
『日本書紀』の記述をある程度史実を
反映したものとして扱っています。
あくまである程度ですが。

○豪族=貴族の前身=元祖武闘派

 中世に武士が台頭したのは、貴族と
その地盤に隙間ができたからでした。
地元選出の議員やアイドルが、中央政界に
進出したとかメジャーデビューしたとかで、
地元を顧みなくなっちゃったようなもの
でしょうか。
 古代はその前なのですから、地元で
ブレイクしていた頃、と言えそうです。
もちろん、豪族は土地や職能集団の元締め
なのですから、暴力も含めて何でもアリな
方々だったことでしょう。つまりは、
武闘派の元祖ということになります。

○乙巳の変の前後から推測する

 乙巳の変後に改革が行われ、それが
「大化の改新」と呼ばれています。
 何が一番変わったのでしょうか?
 もちろん個人的な意見ですが、それは、
「天皇家の確定」にあるように思われます。
どういうことかと言うと、これ以降、
天皇家そのものが、他の何者かに取って
代わられそうになることが、なくなって
いるのです。時の権力者達は、追認機関
としてであれ、天皇家ありきで行動して
います。
 まあ、一部空気の読めない例外さんが
いらっしゃいますが。「新皇」平将門とか。
織田信長もあの調子でいけば、禅譲を
迫ったかもしれませんね。その空気の
読めなさが彼らが失敗したり、頑強な
抵抗にあったりした原因だったりもするの
でしょう。

 どうして乙巳の変がその画期だと
考えられるのか、については、状況証拠が
あります。それは、変直後から天皇家が
内輪揉めを始めたことです。彼らは外部の
脅威が取り除かれたからこそ、内輪での
皇位争いができるようになったものと
思われるのです。

 ということは、乙巳の変以前は、天皇家
(大王家)はまだ取って代わられる可能性の
ある存在だった、ということになります。
これを基に、もう少し前の時代を推測して
みることにします。

○「聖徳太子」の伝説と推古天皇

 まずは推古天皇と厩戸皇子(聖徳太子)の
頃のことについて、考えてみます。

・「厩戸」が意味するものとは?

 厩で産まれるとか産気づくという伝承は
何を意味するのでしょう?
 私はこれをまず、「産屋で産まれ
なかった」と解し、さらに、「産屋で産む
わけにはいかなかった」という内容を含んだ
表現と考えることにします。現代風に言う
なら、病院に行くわけにいかず、浴室など
で産まれた子、というやつでしょう。
 厩で産まれる子のほとんどは、母が奴隷の
場合でしょう。この場合、厩で産まれるのは
ある意味当たり前のことですから、後者の
含意は持ちません。

 しかし、厩戸皇子の場合は、母の身分が
高いです。この場合、後者の意味を持ち
ます。つまり、実の父は用明天皇ではない、
というのがこの名前の意味するところでは
ないかと思われます。歴史で時々聞く、
妊娠していたのに嫁に出したという話が、
ここにもあったのかもしれません。

 ということは、厩戸皇子は、実は皇子では
ないのに、摂政とか皇太子とかになったと
言われていたことになります。つまり彼は、
蘇我氏が皇位を奪うために送り込んできた
人物だったのではないでしょうか。

[蛇足]某教祖様の場合
 某教祖様はこの「厩伝承」をお持ちの上、
さらに、母が「処女懐胎」だったという
話です。なので、この見立てでさらに、
「処女=外部の男性の可能性がない」という
意味が加わり、本当に現代風では「病院に
行くわけにいかず、浴室などで産まれた子」
ということになりそうです。
 ……長じて既存社会に噛み付くように
なったのも、無理のない話です。

・「聖徳太子」伝説と推古天皇

 さて、そんな厩戸皇子でしたが、結果から
見ると、彼が皇位につくことはありません
でした。どうしてでしょう?

 まず、天皇家(大王家)側の抵抗があった
ものと推測されます。蘇我氏の側でも
崇峻天皇を暗殺した後で、これ以上他の
豪族達の反発を招くような強引さを見せる
わけにいかなかったところもあった
でしょう。その両者の妥協点として成立
したのが、「つなぎ」の女性天皇としての
推古天皇だったのではないかと思われます。
ですが、推古天皇がつなぐ前に厩戸皇子は
死んでしまい(殺されたのかもしれません)、
蘇我氏の狙い通りにはなりませんでした。

 もう一つ考えられるのが、厩戸皇子自身の
反対です。「和を以って貴しとなす(斬った
張ったはダメ、絶対)」という人だった
ようですから、大王家とも折り合っていく
考えの持ち主だったのではないかと
思われます。個人的にはこのあたりが
彼が「聖徳太子」と呼ばれるようになった
所以なのではないかと考えています。
大王家(後の天皇家)を守った英雄だ、と
天皇家が確立した後になってから言われる
ようになったのではないかと。
 ちなみに厩戸皇子が皇位につけなかった
(つかなかった)ことで、子の山背大兄王は、
裏切り者として、あるいは使い道の
なくなった道具として蘇我氏から排除され、
滅んでしまいます。実は血縁でない大王家も
積極的に助けようとはしなかったのかも
しれません。

 厩戸皇子の願いもむなしく、この時点では
斬った張ったの世の中が止まることは
ありませんでした。

○大王家の系譜と豪族の姓(かばね)について

 あまり細かく見ることはしませんが、
およそ古代はこのような斬った張ったの
世界だったと推測されます。天皇家も
確立されてませんから、そのあたりから
怪しんでみるべきと思われます。

 ぶっちゃけてしまうと、現在縦に繋がって
いる天皇家の系図は、古代に関しては、
並列してあったいくつかの系譜を、強引に
縦一列にしたものと考えた方が現実に
近いように思われます。
 もっと言ってしまえば、系図と言っても
一部は親族関係を示すものとも限らない
という可能性も割と高そうに思われます。
現代で言うところの会社などの組織の
歴代の長を図式化したものも「系図」や
「系譜」なのですから、古代の○○族
などでも同じことがあっても不思議では
ないでしょう。
 在位年数の異常な長さだって、実は
「日」とか「月」だったものが、後世
「年」になってしまったものなのでは
ないのですかね。ある程度安定した朝廷が
あって、年単位の歴史記述をするのが
常識になっていた人達が、古代にもそれを
適用した結果できあがったもののような
気がします。

 冒頭で取り上げたように、豪族は武闘派の
元祖なのですから、豪族に与えられた称号の
姓(かばね)というのも、実は斬った張ったの
世界の用語だったのかもしれません。
例えば、

君:大王家の親族=江戸幕府の親藩
臣:大王家の重臣(幹部)≒江戸幕府の譜代
連:大王家とは盟約関係≒江戸幕府の外様

直:戦費(貨幣はないので物資でしょうが)を
  出した功績(「値」が「直」に変じた)
首:兵員を出した功績

といったように。

○貴族化と都の成立

 そう考えれば、井沢元彦さんが問題提起
されていた、「古代では都を転々と移して
いたのはなぜか」に対する答えは、
怨霊信仰というのもあったでしょうけど、
より現実的な支持基盤の変化や、暗殺の
危険の回避とといったものが、強い理由
だったこともあったのではないかと
思われます。
 現代風にざっくり整理するなら、病死が
伝染する病気であった場合への恐れが
前者(怨霊信仰)で、毒殺であった場合への
恐れが後者(支持基盤の変化や暗殺の危険の
回避)ということになるでしょうか。
 個人的には、後の安定した都(朝廷)の
成立は、二つのことが要因だったと考えて
います。一つは、壬申の乱で天皇家が一度
一統だけになって(血統が細くなり過ぎて)
内紛が止んだことです。そしてもう一つは、
天皇家も豪族も次第に貴族化して、
支持基盤との直接的な繋がりがなくなり、
兵を動員した勢力争いができなくなった
ことです。

○本当に「聖徳」なのか、それとも…

 皇室の守護者としての「聖徳太子」
伝説について書きましたが、実はもう一つ
仮説…というより与太話があります。
 ここまで見てきたように、日本史には
ベースに斬った張ったがあったのかも
しれません。ならば、「徳」は現代人が
思うような良い意味ではなかった可能性が
出てきます。どういうことかというと、
勝った側が負けた側を指して、「あいつは
徳があったんだろ(実力はなかったけどな)」
と謚したのではないか、ということです。
現代風に言えば、「徳(笑)」説です。
徳の字がつく天皇は、負けちゃった人が
多いような気がするので。中大兄に負けた
「孝徳」とか、道鏡に禅譲しようとして
政争に負けた「称徳」とか、源氏に負けた
「安徳」とか。「聖徳」だって、斬った
張ったの廃止に失敗し、即位もできず
(せず)、子孫は滅んでますし。

 こうした血みどろの歴史と、武闘派から
インテリへの転身があって、平安時代の
斬った張ったではない、政治力と経済力
(当時は政治カネではなく、政治とモノ
でしょうか)で勝負する世の中が、
ようやく出来上ったのかもしれませんね、
というお話でした。

主な参考文献

『日本史真髄』 井沢元彦著 小学館 2018

『歴史のIF』 本郷和人著 扶桑社 2020

『日本史ひと模様』 本郷和人著
日経BP日本経済新聞出版本部 2020

『日本史の定説を疑う』
本郷和人、井沢元彦著 宝島社 2020

『毒親の日本史』 大塚ひかり著
新潮社 2021

『物部氏』 篠川賢著 吉川弘文館 2022

 さて、歴史の与太話と経済の話のネタは
これでほぼ終わりました。次回は、第一回を
やったきりになっていた、どうして歴史を
学ぶのかを考える「歴史の話」の第二回を
やる予定です。


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