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「推し」はすれど自分を下げるな

「尊い」という言葉に加え嫌悪を感じる言葉、「推し」

自分が応援してる人、尊敬してる人、見守りたい人などを指すときによく使われているイメージである。
一見すると別段大した問題のない言葉のように思う。
だがこれも「尊い」と同じように抱き合わせて使われる文脈に、人としての堕落を感じる。

例えば、
「推しに、貢いだせいで生活費がギリギリだ。」とか、
「推しに会うだなんて恐れ多い」
など。

なにかアーティストや、アイドルなどのパフォーマーを応援するだとか、支援するということは大変結構なことであると思う。
普段の生活からは摂取できない栄養素があるというのもわかる。

でも何故そこで、変に謙譲してしまうのか。妄信してしまうのか。信仰してしまうのか。

とんちんかんなことをしている推しに対し冷静に「それはおかしい」と思うでもなく、「推しがしていることだから正しい」となってしまうのか。
それはもう一つの宗教に成れ果てているではないか。

芸術家、岡本太郎は著書「自分の中に毒を持て」でこう述べた。

ぼくは芸術と言ったが、それは決して絵・音楽・小説というような、職能的に分化された芸ごとや趣味のことではない。…ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命を突き出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。
”芸術は爆発だ”※1

彼は他人とぶつかり合いそして何より自分自身と殺しあうことで、やがて大阪万博において賛否を巻き起こした太陽の塔を建築した。それは今もなお見る者に緊張を与える。

要するに何が言いたいのか、自分と推しで相対した時、自分を下げるなよということだ。

対等に立ち、賞賛はしつつも自分はどう思うのか、自分がどうありたいのか、考えることが、考え続けることが大切なのではないかと思うわけである。考えることを、爆発することをやめた人間に待っているのは、時代に取り残され、やがて緩やかに死んでいくことしかないのだから。

※1岡本太郎 (2017) 『自分の中に毒を持て〈新装版〉』、青春出版社出版




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