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火垂るの墓論争まとめ

ちゃんねるのほうで呟いてからちょくちょく見てる件についての忘備録というかなんというか。

①火垂るの墓は結局どういう話なのか?

以前から知られている話として、火垂るの墓のモデルは原作者野坂昭如本人だという。
幼くして死なせてしまった妹への懺悔ということで、どこまで悔いているのか、はたまた過去の自分をネタにしただけなのかは野坂先生のみがしることだけど、話の骨子には「妹の死」と「兄の懺悔」があるのは間違いないんだろうなと。
映画をみたのも随分前のことだけど、たしか冒頭も幽霊になった清太が自分が死んだ駅周辺を見ているシーンだったと思う。
最初に死んだ姿というオチを見せていることからも、この作品はここに至るまでの話を書いた帰納法の作品なんだろうね。
なので清太や節子がこうすれば生きていたというのは火垂るの墓そのものの否定(あるいはそれが本編だからこそ、崩すことに価値がある二次創作)なんだと思う。


②清太は自己責任?

最近の騒いでいる人の争点が、清太の行いが自己責任かどうかという話らしい。
どうも清太の行いが悪いから死ぬことになった。
だからあれは自己責任ということらしい。
自分のスタンスとしては、清太が悪いというのはむしろ作品の根源だと思う。
それをいくら批判しても「で、それだけ? お前以外全員知ってることだけど」というのが正直なところ。
だけど全員知っていることというのは、ちょっと言い過ぎなんだろう。
弱い子供が至らないのは当然であり、だから批判されることは間違いだと言い出す人がいるのを見受けてしまう。
そこからヒートアップして、自己責任と切り捨てている。
だから今時の若者は浅くて考えなしで自分勝手だのなんだのと、講釈を垂れる人すらいる。
あくまで個人の見解だけど、自己責任という言葉を当てはめるべきかは、そもそも微妙な話に思う。
助かりたい意志がないと助からないというのはどうしてもある話で、清太の行動は意図的に助からない方向に進んでいる。
だからこの点を批判されるのは仕方がないし、むしろ批判されるべきツッコミポインツナイス角度だと思う。
そういう意味では自己責任なんだけれど、清太の育ちが俗に言う「金持ちのボンボン」であり、それが一夜にして「親戚の家の厄介者」に没落した存在があの兄妹という設定になっている。
これを踏まえると、清太が西宮にて次第に孤立していくのは清太も悪いんだけど、むしろそうなって当然な存在としか言えない。
嫌味なお金持ちがいきなり貧乏になって仕返しされるってのが因果応報としてよくある話だけど、清太はまんまそういうポジション。
ちっとは働けと尻を叩くおばさんは次第に清太の扱いを悪くしていくし、食事を減らされて節子も文句を言い出す。
あれを見ておばさんとしては「お前が悪いんだから反省しろ」という意味だったけれど、清太としては「下僕である節子を愚弄されたもう許さない」になってしまう。
どっちもどっちだが、おばさん目線でいうとあの手この手で尻を叩いた上での最後通告…俗に言うぶぶづけがあのナッパだったんじゃないかなと感じる。
ちなみに自分は原作は教科書に乗った抜粋しか読んでいないし、それもかなり前なのでうろ覚え。
なので伝聞だけど映画のあのあたりの描写は映画の脚色という話。
原作者の意見としては「どっちもどっちだけど、高貴な身分だった清太は下郎であるおばさんの言いなりにはなれなかった」というすれ違いだったのかなと。
自己責任だといえることはいえるんだけど、清太がああなったのはある意味で当然の結果。
だから批判=自己責任というおしつけは違うのは擁護する上でも叩く上でも分けるべき点だと思う。


③高畑監督のアレ

映画版の監督である、高畑さんは「おばさんのように清太を批判する人間が増えるのが怖い」と言っていた。
この点で全体主義だのだ戦前の空気だのという話だけど、自分としてはここは原作とは関係ない、高畑監督個人の考えでしかないと思う。
おばさんだって辛いんだし、清太も悪いところがいっぱいある。
だからおばさんの肩を持って清太を批判する人がいてもそりゃそうだよなというのが自分の見解。
だけど全体主義どうこうについては「清太の生き方を存在否定されてしまったら世の中おしまい」という方向では理解できる。
洞穴にこもった清太と節子のことを監督は「全体主義に囚われた偽物ではない、本物の家族」と表現していた。
周りに合わせて生きるおばさんたちが偽物というのはどうかと思うんだけど、野垂れ死ぬ自由を選んだ清太の存在否定はたしかに全体主義だろうなと。
だけど昨今は清太の批判が激しくなったとかいう反面で、清太を批判することそのものを禁忌化した物言いも増えたように感じる。
清太を見捨てたおばさんは邪悪であり、清太と節子は助かるべきだったという主張。
この手の主張では清太の態度が悪いのも、基本ダラダラしていたのも、その他あれこれも全部「責任能力のない弱い子供がやったことだし許せ」「批判してるやつだって同じことになるんだし文句言うな」と上から目線な反論の意図を感じるレスを見かけてしまう。
でもそういうのって、それこそ高畑監督が恐れた全体主義何じゃないかなと感じる。
最近こういう道徳的優位を前提にしたマウンチンコ行為を行う、リアルテコ朴案件が増えすぎていると思うし、そういうのは嫌だと思うとともに恐ろしさも感じてしまう。


④まとめ

清太はいくら叩いてもいいクズであり、だから節子は死んだ。
これを否定したらもうその作品は火垂るの墓ではなくなると思う。
だけどそれを自己責任だと上から目線で言うのも、叩くなクズがと反論するのも、結局どっちも清太という弱者を見下すことで成立するメサイアコンプレックスなんじゃなかろうか。
そんなふうにおもいましたまる。


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