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百姓の喜び
土であることを思い出し、賑やかな命の真最中。
人だけの世界から出てきて、万物に戻る。いえ、自分が自然の一部であったと思い出している。
食い物を育てる。野山に囲まれ、生き物にまみれ、賑やかだ、幸せだ。
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命に溢れるもの食うに足り、愛する人がいて、全てを神様が祝福してくださる。
祈ればいつも応えてくださる。
何もいらない、すべてがここにある。
満ち満ちている。感謝と愛することだけが残っている。
自分が土であったことを思い出して、土と溶け合って、天上の喜びを感じる。
それ自体が賛美になる。人生は祭りだ。
田で草を抜いていると、ボソッと一匹のカエルが鳴き始め、気づけば大合唱。そして静かになる。
草を抜くと赤虫やうごめく生き物。泥の上には無数の昆虫が忙しく泳いでいる。
ゲンゴロウ。アメンボ。マツモムシ。賑やかだね。
夕暮れになり田んぼを終えると、フクロウが鳴きはじめる。星も瞬き始める。
夜も朝も昼も。田も森も川も私も。
賑やかだったのだなあ、こんなにも。
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かつての百姓達は、延々と続く命のリレーの不思議と、それを運行する摂理の深遠さに酔いしれていたのだろう。仕事と生活と生き様と信仰が一つだった時代。
なんという贅沢。
米を撒けば米が実る不思議。
愛する人の亡骸が土に還っていく悲しみと喜び。
田を支え、賑やかす、無限の命たち。
過去との対話と未来へのバトン。無私の境地。
豊穣と平和の祈り。神への感謝。
「頂きます」という行為が生まれる土壌は農村と百姓だったのかと思いを馳せる。
農村こそ信仰を得る場だったのだ。
頂きますは、祈りと感謝と懺悔の合掌だったのか。
土地に染みついた百姓達の精神を理解しながら、創造目的(※)を実践していきたい。
僕が聖書で学んだ神様は異国の唯一神ではなく、時代も国も宗教も哲学も超え、どこにでも偏在していて、
寡黙に自然とカミを愛しこの土地を耕してきた百姓たちの祈りも聞いて応えていたのだろう。
西洋と東洋、多神教と一神教、そんな二項対立をものともせず、創造した人間、一人一人を愛して、向き合ってきた温かな神様の視点が、この農村にも注がれてきたし、今もそうだという事を生活で確認していきたい。
※創造目的:神様が人間を創造した目的。
人間が神様に作られた存在だと仮定するならば、人生の目的は人が決められるものではない。なぜなら、自ら目的をもって生まれてきたわけではないから。I was born.(「私は生まされた」という受動系)。
生まれた目的は、作者に聞かないと分からない。
〇参考
「百姓の五段階」19世紀後半の篤農家 松田喜一郎
・1段階:利益を追求し生活レベルを上げる。
・2段階:百姓の芸術は、相手が生き物であり、限りなく深淵であることに気づく。
・3段階:山は聳え、水は清く、葉澄める農村には、月を仰いで生活するだけで、心も溶けるほどの喜びを感じる。
・4段階:大地の声なき声を聴ける百姓になれ。農作物の心が判る者は、天地の心が判る。
・5段階:相手が天と地の力で営む職業である農業こそ、神仏に近づく途である。農村こそが信仰を得る場所である。
この、五段を併せ得た者を「百姓」と呼ぶ。
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