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春が終わる

2022年の年の瀬、わたしは二十を迎えました。
あの日は昼からアルバイト。いつもなら家を出る直前に起きて、せかせかと用意を始めるのですが、あの日は早くに目が覚めて、10時30分に家を出た姉を見送っていました。あの日から一年と半年。わたしの心はあの日のまま、あの場所で息をしています。

大学生になって、と言うより、毎年元気に年を重ね、一年が突っ走っていく様子についていけなくなっています。はやい。人生における一年に対する分母が日々大きくなり、仕方がないと言えばそうかもしれないけど、あまりにもはやすぎて、心を過去に置き、体と離した状態で生きているような感覚です。特にこの半年は、それが顕著に感じられました。寂しくて涙が出たかと思えば、次の日には涙も出なくて、ついにまた感情が死んだとも思ったし、いよいよ人間として落ちるとこまで落ちたのかとも思いました。昨日まで悲しんでいたわたしの背中を、同じ人間であるわたしが後ろから眺め、傍観している感覚が消えず、物事に感情を動かされる自分に呆れるなどもしました。ただただ大きな疲労感を感じていたことも事実で、自身が選んだ道なのに、長時間落ち込み、泣いているわたしに、そうする他なかったのです。しかしながら、きっとそんな想いの片側で、まっすぐに喜怒哀楽を表せることにうらやましさも感じておりました。強がりでめんどくさいわたしは、それをそうと認めず、「なんとも幼稚な行動、年齢に相応しくない有様」だ、とめったぎろうとしていました。

寂しいという言葉は、幼い頃から誰かに届けることが苦手です。どこか恥ずかしく感じます。けれども本当はそんな言葉じゃないはずで、その感情を隠した方がより寂しくなるのかもしれないから、伝えるに越したことはないのかもしれないような。何が言いたいんだ。伝えそびれて後悔するくらいなら、あなたが必要で、というか、愛おしくてたまらなくて、離れてほしくなくて、別の道を進みたくなんかなくて、ずっと一緒にいてほしいとすがってみるのも悪くはないと思います。というより、わたしはそれを認めて欲しいです。そのうえで、寂しいという言葉を受け止めて欲しい。愛しいから寂しい。かえってきてほしい。今日も会いたいです。