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ガチ素人廃線・廃道探訪録〈小峰隧道②〉

 前回までの記事を読んでくださった方はありがとうございます。そうでない方は初めまして。前回は八王子市側からかつての車両での小峰峠越えを担った旧都道を歩きました。今回は峠道の頂点に現存する隧道と,残るあきる野市側の取付道路を辿ります。前回はこちら。

 もし興味がありましたら前回もご覧いただけると幸いです。

1.偉大なる小峰隧道

 八王子市とあきる野市を隔てる標高288mの小峰峠。歩道として転用された細く曲がりくねった旧都道の先には,峠を貫く隧道がありました。

①小峰隧道¹⁾
延長79m,幅員4.3m,限界高3.5m,竣工年1916年
画像は八王子市側坑口(データは一部現地で得られたものに置換)

 周りを鬱蒼とした木々と峠の岩壁に囲まれた小峰隧道。その竣工年度はサイトや情報源によって多少のずれがあり,正直今も確証は得られていません。しかし確かに言えそうなことは,この隧道が「大正時代」に造られたものであるということ(ここでは現地で得られた情報より大正5年竣工という前提で話を進めていきます)!西暦で約1916年竣工ということで,当然八王子市内では現存する最古の道路トンネル²⁾であり,東京都でも有数の歴史あるトンネルとなっています。その由緒ある出歴は坑門の意匠にも表れているようで,坑門の壁は煉瓦造り,伝統的な坑門の意匠である笠石や帯石,壁柱,扁額にアーチも完備しており,まさに古式ゆかしき煉瓦隧道といった趣です。

坑門の材質はアーチ部・扁額のみ石材,他の部分は煉瓦製。
煉瓦巻きの隧道では,ポータル環のみ石材というのはよくみられる意匠らしい³⁾。
煉瓦部分はおなじみのイギリス積み(長手面のみの段,小口面のみの段を交互に積み上げる⁴⁾)。
扁額もおそらく石材製。
蔦に隠れており見づらいが,右書きで達筆に「小峯隧道」と書かれている。
壁柱部分には電源管理用っぽいボックスが設置されている。
さもすっぽり収まるところに収まっているような顔(?)をしているが,当然後年の改修時に照明の点灯のためにつけられたものだろう。洞内に伸びるケーブルと合わせ煉瓦隧道とはかなりちぐはぐな感じになっているが,これはこれでいいものである。
振り返りもと来た方向を撮影。隧道手前には両側ともに立派な石垣があったが,
夏の隆盛な植生に覆い隠されてしまっている(写真撮り忘れ…)。先駆者のサイト様によれば野面積み(自然石をそのまま積み上げた石垣)だったらしい⁵⁾。路面は少し手前から泥に覆われ始め,本来のアスファルト面が隠れてしまった。まだ新しいバイクのようなタイヤ痕もみられる。
少し戻って隧道方向を撮影するとこの通り。前方の峠やもとの路面の幅がわからないほど両側からせり出した藪,空を覆う勢いの木々に地面の土砂,経年変化で黒ずんだ坑門壁面などが合わさり,隧道付近は昼間でもひんやりとした薄暗い雰囲気が漂う。

 この小峰隧道が存在するのは新小峰トンネルが開口している峠の麓より八王子市側からは20m,あきる野市側からは37mほど上がった場所です。現代では麓から麓へ一気に貫いてしまうような場所ですが,約105年ほど前には長い峠道を設け高度を稼ぐことでやっとこさ越えられるようになるという,道路交通の難所と呼べる場所だったようです。そのような交通の難所だった小峰峠に,なぜ100年も前から隧道を通す必要があったのでしょうか?諸説あると思いますが,一説には安政9年(1859年)の横浜港開港の影響があったと考えられているようです⁶'⁷⁾。
 八王子は江戸時代,「桑都」とも呼ばれるほどに南関東の養蚕機織の中心地でした。秋川・五日市(現在のあきる野市の一部)も八王子の経済圏に組み込まれており,当時より秋川・五日市と八王子の間では五日市で生産された生糸を含め人や馬の往来が盛んでした。小峰峠は五日市盆地の南の縁にあり,秋川から八王子へ行くために越えねばならない峠として隧道開通以前から峠越えの人馬道が開拓されていたようです。生糸のみならず日用品の流通や八王子へ改まった買い物に向かう人々にも利用され,小峰峠は人・物の交流の要衝となっていきました。やがて1859年に横浜港が開港すると生糸は海外へも輸出されるようになり,鉄道などの交通網の整備により全国から八王子へ生糸を集積する体制が整えられました。集められた生糸は横浜鉄道により横浜港へ輸送され,海外へ輸出されていったとされています。この流れを受け,五日市から八王子への生糸輸送ルートである小峰峠にも,より効率的に生糸を輸送するために隧道整備が求められるようになりました。これを受け大正5年(1916年)に完成したのが「小峯隧道」およびその前後の峠道です。

明治時代の横浜港
※画像はwikipediaより転載⁸⁾

 そんな小峰隧道ですが,昭和5年(1930年)に五日市鉄道が立川まで、昭和6年(1931年)に八高南線が八王子から拝島まで相次いで開業すると,鉄路のみで五日市から横浜まで生糸を輸送するルートが確立します。当時の物資輸送の主役は鉄道ですから,これにより生糸の輸送ルートとしての小峰隧道はその役割を終えることになります。つまり小峰隧道を含む道が「絹の道(シルクロード)」としての役割を果たせたのは,大正5年から昭和5年までの14年間という短期間だったことになります。
 しかし,絹の道としての役目を終えた後も小峰隧道は,難所である小峰峠を車両で越えられる唯一の道として多くの人の往来を支えました。特にかつてから峠越えに難儀していた地元の人々にとっては,路線バスを通し五日市と八王子をつないだ交通・人々の交流の要衝として大変親しまれていたようです。以下「五日市イロハかるた:たのしい郷土史」において小峰隧道の地元交通に与えた影響が感じられる記載がありましたので引用します⁷⁾。

(ら)らくらくと小峰峠をバスで越え

明治二十八年,日清戦争に勝ち,好景気にわいている中で,五日市の若者有志は,五日市ー八王子間の乗合馬車会社をつくりました。ところが小峰峠ごえが馬に無理で,馬がつぎつぎにたおれ,会社は解散しました。そのあとを仲間の一人石川重五郎さんが引き受け,小峰峠をさけて,今熊神社の鳥居を出発点とし,やっと経営がなりたちました。その代わり五日市のお客は小峰峠を歩いて越えねばなりませんでした。大正九年,小峰峠にトンネルが開通すると二代目虎一郎さんは早速フォードの中古車を買ってきて,発車場所も五日市町内に戻しました。
(中略)
 難所小峰峠も一息に登り,八王子への距離はぐんとつまりました。

「五日市イロハかるた:たのしい郷土史」五日市町教育委員会(1983)

 当時小峰峠が交通の難所であったこと,小峰隧道が開通されバスが通れるようになったことで五日市と八王子の行き来がぐっと楽になったことがわかります。峠一つに次々と馬がやられ,会社の解散にまでなるというのは相当ですね…。
 文中に登場する重五郎氏はもともと馬車の御者をしていたそうで,破産した会社の処理を半ば押し付けられる形で引き受けたそうです。その状態からなんとか収益を得られるまでにこぎつけ,当時高価であった自動車を取り入れ,昭和にはさらに路線を福生や青梅まで拡張したということで,重五郎さんの地元交通への貢献はものすごいですね。町の人々は彼を五王さんと呼び,親しんでいたそうです。

洞内からもと来たほうを振り返り撮影。高さ3.5m,幅4.3mと現代の交通事情に追いつけなくなってしまったこの80mにも満たない小さい隧道とそこに至る峠道は,遥か100年前からずっと難所である小峰峠の峠越えを一手に担い人々の交通の便に貢献し続けた,偉大な峠道だったようだ。

2.小峰隧道の今

 さて翻って2021年(探索時点),さっそく小峰隧道に入洞してみましょう。

洞内の様子。もともとは煉瓦巻き立てだったが後年の施工によりコンクリート巻き立てに。以前は天井部分にトラックの荷台などが当たってか覆工がガリガリ削られた跡があり,削られた箇所に煉瓦が露出しているのも確認できたらしい⁹⁾。私が探訪した際は発見できなかった。見落とした可能性もあるが,より後年の補修で埋められてしまった可能性のほうが高いか。
その根拠は壁面につけられていた整備工事の銘板。2006年3月にコンクリートを吹き付ける補修工事が行われたらしい。それにしても15㎝というのはかなり分厚い。それほど耐久性に不安があったのだろうか。
洞内にも泥は浸食していたがさすがに隧道直前よりはひどくなく,かろうじて白線も確認できる。
白線の外側には側溝もあったが,なんとコンクリート吹付によって上を半分以上塞がれてしまっている。これ蓋外せないでしょ…。
照明もおそらく補修時に新調され,昼間でもしっかり点灯し洞内を照らしている。
壁面にはモルタルの上から白く塗られたような跡が延々続くが,これが何かはすぐに判明する…
照明がついているのはありがたかったが,あきる野市側坑口が近づくと突然照明が無い区間に。
なぜ中途半端にない区間があるかは不明だが,照明のありがたみを再認識させられる暗さである。

 ようやくあきる野市側坑口が近づき外からの光で隧道壁面が照らされ始めると,今まで気づかなかったものが…。

……
…………

 …いや,「葛西から参上」じゃないが。八王子市側では気づきませんでしたが,隧道壁面に無数の落書きがみられるように。その多くは「~~から参上!」と出身地を高らかに宣言する文言のものです。そこでようやく気付いたのですが,隧道壁面にみられた無数の白いペンキで何かを塗りつぶしたような跡,あれは落書きを消すための応急的な処置だったのです。あの跡が隧道の端から端まで続いていたことを考えると,以前は隧道の両壁面の隅から隅まで落書きで埋め尽くされていたことでしょう。整備に来た行政の方か地元の方か,応急処置的に消してくださっている方がいるのかもしれません…。実はこのような落書きは以前紹介した「満地トンネル」でも問題となっていたようです。こちらは実際に綺麗になる前の写真を上げているサイト様があるのでそちらで確認できます¹⁰⁾。私も見てみましたが,想像をはるかに超えるひどい有様です…。アーティスト気取りか何かわかりませんが,隧道は別に作品発表の場でも自分の存在を誇示する場所でもないと思うのですがどうでしょうか。満地トンネルに監視カメラ設置の文言などがあったのは,おそらくこういう輩が入ってくるのを防止するためというのもある気がします。
 なぜこうも落書きが多発してしまうのでしょうか?生活圏からほど近い場所にあり夜は人も来ず暗い場所であるために,そういう場所が好きな人々があつまりやすいというのは小峰峠に限らず東京都の旧隧道に共通の問題としてあるようです。しかし小峰峠にはそれ以上に,そういうものを引き付けてしまう(謂れの無い)火種があります。というのも,小峰隧道はいわゆる「心霊スポット」として全国的に有名であるようなのです。
 ではなぜ小峰隧道は心霊スポットとなってしまったのでしょうか?結論から言うとそこには『東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件』が関係しているそうです¹¹⁾。以下サイト「しんれい新聞」様より小峰峠と事件の関係について言及されていたので一部引用させていただきます。

 注意!:以降少しの間猟奇的な事件についての記述があります。そういった表現が苦手な方は読み飛ばしていただくことを推奨します。

『東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件』は宮崎勤が1988年(昭和63)~1989年(平成1)に起こした大事件である。4名の幼女を甘言を用いて誘拐し、首を絞めて殺害。殺害した後にわいせつな行為を行い、その様子をビデオ撮影した。自宅の庭で遺体の骨を割り、油をかけ焼く。遺体をのこぎりでバラバラしてから遺棄。手を焼いて食べた。(これに関しては後に否定されている) 遺骨を被害者宅に送り付けるという常軌を逸した行動に出る。余りにも衝撃的な事件だったため社会問題となった。『ロリータ・コンプレックス、ペドフィリア、ホラー、オタク…。』彼は録画ビデオの蒐集が趣味で所謂オタク気質であり、その中の一部に事件に関連付けられるものがあったためマスコミの格好のネタにされた。最近でこそオタクという理由だけで叩かれることはなくなったが、この事件をきっかけに当時のオタクたちは滅茶苦茶にバッシングされてしまった。とんだとばっちりである。宮崎は4人目を殺害して間もなく別の幼女に狙い付けるが、その父親に取り押さえられ逮捕された。2008年(平成20)6月17日に死刑執行された。反省の色は全くなかったという。
(中略)
心霊スポットのサイトなどを確認すると『旧小峰トンネルが事件の現場だった。』と書かれていることが多い。(もちろん真面目に調べて真実を書いているサイトもある。)小峰隧道は殺害現場でもなければ、死体遺棄現場でもない。誘拐した場所は全く別の場所であり、死体遺棄現場はここから2km程離れている、遺体を焼いたとされる宮崎勤宅も同様だ。この事件が原因で『小峰隧道で幽霊が出るようになった。』というのは無理があるだろう。

「宮崎勤の誘拐殺人事件が原因なのか?旧小峰トンネルが心霊スポットになった経緯」

 要するに,「死体遺棄現場がそう遠くない場所だった」ということに関連付けて小峰峠が心霊スポットとなってしまったようです。もちろんこういう重大事件があったことは忘れてはいけませんが,小峰隧道にしてみれば謂れの無い心霊スポット呼ばわりをされた挙句に心無い落書きまで残されるという状況…(仮に肝試しに行ったとて,そこに落書きを残すという行動心理がまた理解に苦しみますが)。「火のないところに煙は立たない」といいますが,この例に関しては完全に火はなくとも煙が立ってしまっている気がします。

正直旧隧道という存在自体がそういったものの火種になってしまうというのは否めない。山中の鬱蒼とした林の中にあり,経年変化で黒ずんでしまった隧道。当然隧道の中は照明が無いこともあり人もいない。そんな状況に身を置けば恐怖を抱き暗闇に霊的存在やなんやを想像してしまうのは容易いかもしれない。
しかし土木技術の結晶たる隧道には,多くの場合そこに存在する理由があり,かつて多かれ少なかれ人や物の往来があったはずである。暗い部分に目を凝らすだけではない隧道の楽しみ方も,多分ある気がする。

 流れでぬるっと反対側に出てしまいましたが,あきる野市側の坑口も基本的な意匠は変わらず。こちらはしっかり石垣も映っていますね。坑門と同じくらいの高さまである立派な石垣です。これも当時からのものなんでしょうか。

扁額もあったがその内容は隧道名ではなく,右書きで竣工年が記されていた。
曰く「大正五年二月成」とのこと。

 この竣工年月については,隧道データベースの大正元年という記述と食い違いがありました。実は竣工年については他のサイトでも元年だったり5年だったり9年だったりとまちまちでいまいち確証が得られなかったんですよね…。一応行政の資料¹¹⁾は大正元年でしたが,おそらく隧道データベースと出展は一緒だろうしなぁ…。といった経緯で,この記事では現地の記述を信用し「大正5年竣工」としました。より詳しい情報を持っている方がいらっしゃれば,ぜひ情報提供お願いします!

3.再び長い峠道へ

 さて,隧道を抜けた後も終わりではありません。現在地は標高260m付近ですがここから麓の道までは40mほどの比高があり,それを等高線に沿うように蛇行しながらゆっくりと降りていきます。

②小峰隧道を出てすぐに,近距離にカーブミラーが連続するカーブに遭遇。
…2ついる?と思ったけどかなり大きい半径で曲がるカーブなので,1つだけでは足りないのかもしれない。

 そういえば小峰峠のカーブミラーはどれも外されていませんでしたね。旧道上ではミラー部分が外されたやつが定番だったりするのですが。道のほうは相変わらず両側を藪に侵食されており元の幅は全然わかりません。ただ,真ん中部分には路面が顔を出したスペースが残されており,そこは土や落ち葉の堆積もなくかなりきれいでした。自転車でも難なく走れるので,結構快適でした。

③道の線形はといえば,カーブミラーが必要な程度のカーブと直線とを繰り返しながら,緩やかに傾斜をつけて下っていく。

 路面が藪で浸食されていなかったとしても,車で対面通行するのはさぞ肝が冷える道だったでしょう。隧道を出てから3分の2ぐらいの区間はずっとこの狭さが続き,さらにブラインドカーブも連続するため前方視界も悪い感じでしたので。この峠道は路線バスのルートにもなっていたというのは先ほども述べましたが,この道幅では現代のバスはセンターラインをはみ出さなければ曲がれないでしょうね。
 小峰隧道に関しては現役時代にこの道を使っていたという方の体験談や現役当時の写真などがネット上に豊富にあがっております。それらのサイトでの記述や写真を見ても,建設から80年余りを経たこの細く長い峠道はかなり気を遣う道だったようです。バスが隧道を通過する様子などを映した写真は大迫力(?)なので必見¹²⁾ですね。対向車線にバスが来たときなんかは大変で,原チャリすら離合できずUターンを強いられるほどだったようです¹³⁾。バス側にとってもこの道はかなりの難所だったようで,西東京バスではこの道を含む路線,もっと言えば小峰隧道を安全に通過するためだけに,運転手のほかにもう一人前方を注視しサポートする乗務員を配備していたとか。

④しばらくすると,唐突にセンターラインが復活する。
少し先には法面が現れる。見た目は石垣チックなものではなく現代的なもの。
どうやらあきる野市側の峠の入り口から少しの区間は,峠道そのものが旧道になる直前に拡幅工事か補修工事を受けていたようである¹³⁾。
道は等高線に沿って斜面にへばりつくように伸びているため,進行方向右側はより標高が低い。
ところどころ開けた視界からは,少し下方に点在する人の営みが見える所も。
ただ路面の状況は相変わらず。というか改修されていない区間より浸食が進んでいるような…。
さらに下ると赤いラインの舗装も見え始める。そのすぐ先には…。
⑤あきる野市側の旧道封鎖地点(前回の③地点)。
最初にこのゲートの向こう側につきひよって撤退してから約40分かけて一周してきたことになる。
時間にしてみると大したことないが,私的には大変濃密な隧道体験だった。

 数十年も経てば,その間も隧道を取り巻く交通事情は激しく変化していきます。さすがに高さ3.5m,幅4.3mという規格では,当時の人馬道としては相当にハイスペックでも,車両が大型化し交通量も増加した現代の道路事情には到底ついていけませんでした。同時に土木技術の発達により直線的に峠を貫くトンネルの掘削が可能になったことで,小峰隧道はその車道としての役割を終えました。それでもこの隧道は,一時は国の重要産業の発展に貢献し,竣工当時からおよそ80年余りの間,ほんの20年前まで現役の峠道として峠の交通を一手に担い人々の交通・交流の要となっていた隧道でもあります。
 現在小峰隧道は心霊スポットというレッテルとともに汚されながら,少しずつ人々の記憶から薄れつつあります。しかしこの隧道を残そう,後世に伝えようという人々もまた確かにいます。いつの日か,この隧道がもう少し顧みられ報われる日が来たらいいな。

 小峰隧道編 完結

4.今回の探訪ルート

画像はgoogle mapより拝借。青ラインが探訪ルート,緑ラインが小峰隧道。
①~⑤は撮影地点。

5.探訪する際の注意点

 アクセスですが,やはり電車からのバスが最も手っ取り早いです。五日市線の武蔵五日市駅からバスで6分の「今熊山登山口」で降車し道なりに少し行けば小峰隧道に行く分岐に着きます。旧道は全区間自動車の侵入は禁止ですので,車での来訪はお勧めしません。それと,くれぐれも落書きや不法投棄などはおやめください。

〇参考文献・サイト


1)「小峰隧道」隧道データベース

最終閲覧日:2023年2月5日
2)「公共施設等の現況及び将来の見通し」八王子市
3)「隧道の構造に就て」旧道倶楽部ホームページ

最終閲覧日:2023年2月5日
4)「煉瓦の積み方」

最終閲覧日:2023年2月5日
5)「小峰隧道」ORRの道路調査報告書ホームページ

最終閲覧日:2023年2月5日
6)「小峯隧道(こみねずいどう)」YAMARECOホームページ

最終閲覧日:2023年2月5日
7)「五日市イロハかるた:たのしい郷土史」五日市町教育委員会(1983)
8)「横浜港」wikipedia

最終閲覧日:2023年2月5日
9)「小峰隧道」UYOの部屋 跡地

最終閲覧日:2023年2月5日
10)「旧満地トンネル」heboDJ.net

最終閲覧日:2023年2月5日
11)「宮崎勤の誘拐殺人事件が原因なのか?旧小峰トンネルが心霊スポットになった経緯」しんれい新聞

最終閲覧日:2023年2月5日
12)「惜別企画! 都道32号線(秋川街道)思いでの路線バス」

最終閲覧日:2023年2月5日
13)「小峯隧道」

最終閲覧日:2023年2月5日

 長時間の閲覧お疲れ様でした。もし興味がありましたら次回の記事も見ていただけると幸いです。
 それでは,またどこかで。


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