ポール・タフ『成功する子 失敗する子 何が「その後の人生」を決めるのか』の感想

この本、なかなか読ませる本なのだが、どうしても日本の翻訳タイトルは、フラットなタイトルを若干煽り気味に表現する傾向がある。

原題は「How children succeed ─Grit, Curiosity, and the hidden power of character」で、ニュアンスとして、どのように子どもたちは成功するのか、という趣旨だと私は理解する(副題があるのかないのかはよくわからない)。

「失敗する子」について書かれているというよりは、Grit(邦題だと「やり抜く力」という訳が知られている)やCuriosity(好奇心)といった気質に由来する力をどのように育てるのか、という実践について書かれているように思う。

何かをやらなければ失敗しますよ、という脅しは含まれていないのだが、邦訳は、そのように読まれうるきらいがある。

この本の中には、貧困家庭に育ち、様々なストレス耐性を育めるはずの子供時代に、適切なアタッチメントを得られなかった子どもたちが、その後の大人たちの関わりによって、努力へと意識を向ける事例が多く紹介されている。

だから、子ども時代に何をしなかったら、「失敗する子」になってしまうという恐れを、本書を読んで抱く必要がない。しかし、この邦題は、本書の主旨を、「何がないとダメ」、「何がなかったからダメ」という親の自己合理化の材料として届けてしまう恐れがあるのだ。

この本では、子どもたちが子ども時代に触れ合う大人たちのアタッチメントによってつくられる「気質」が、スポーツをするにしても、勉強をするにしても、それをやり続け、工夫をし、目標に近づいていく力を駆動させる上で重要だと語られる。力があっても、推進力がなければ、前進しないというわけだ。

例えば受験で例えるならば、勉強を繰り返すことで問題を解く力があっても、それらを続ける推進力がなければ、長続きしない。この推進力に当たるのが、私の理解だと「気質」や「性格」と呼ばれているもののようだ。

「性格」というと、先天的なものと思われてしまう。この本で「性格」は「変えることのできない特徴ではなく、つねに発展しつづける特性として性格を提示する」(p.157)ことが目指されている。

知能は改善できると信じているからこそ改善できる。「性格」も改善できると信じているからこそ改善できるという。

この本において、議論すべき点は、ここだと思う。結局のところ、「性格」とは何なのか。私たちの多くは性格は変えられないと思っているが、本当にそうなのか。変えられないものを「性格」と呼ぶべきなのか。私たちが「性格」と呼んでいるもののうち変えられるものもあるのではないか。

本書を読む際には、変えられる性格があり、その変えられる性格を改善し続けることができる、という信念が必要だ。ひとたび、「性格なんて何をしたって変わらないよ」と思えば、本書のすべてがうさんくさく感じる。それなら読まなくてもいい。

『オプティミストはなぜ成功するか』のセリグマンは、「ペシミストには不快なできごとを永続的なもの、個人的なもの、全面的なものと解釈する傾向」があり、「オプティミストは、よくないできごとについては特定のものであり、限られたものであり、短期間のものであると解釈する」傾向があると述べている(p.98)そうだ。

この「性格」をめぐる考えについて、私たちはオプティミストになる必要がある。オプティミストならば、「性格」も一時的なものと考えることだろう。本書を読む際には、オプティミストでなければならない。

ちなみにセリグマン(とピーターソン)は「性格」を「変わることのおおいにありうる─適応できる力を備えた─強みや能力の組み合わせであると定義」している(p.106)

本書は、第一章で、貧困家庭の中で、しばしば起こり得る問題を指摘する。それはアタッチメント(愛着関係)の形成の失敗である。能力は高いのに(力はあるのに)、それを持続する力はない(推進力がない)ために、成功できない子の事例が紹介される。

アタッチメントの失敗が、何を育てないのか。それは「性格」である。特に「非認知能力」としての「感情面の衝動の抑制」である。アロスタティック負荷なるものが前頭前皮質の成長に影響し、子どもたちの持つ「レジリエンス(回復力、抵抗力などを含む弾性)」を弱めてしまうという。

そういうことであれば、幼少期に愛着関係が形成されていなければ、もうリカバリーは無理なんじゃないかと思って、第二章以降を読まずに済ませてしまうかもしれない。

しかし、第二章、第三章は、こうした愛着関係の形成にひとたび失敗しつつあった子どもたちの改善のドキュメントが語られる。それが提示されながら、先に述べた「性格」の話が差しはさまれるのである。

第四章、第五章は、親ではなくむしろそれ以降の大人たちがどのように子どもに関わってリカバリすることができるのかを示している。愛着関係の形成に失敗しても、それらの子どもの「非認知能力」に意識を向けさせることで、改善する道筋を示そうとしている。ただ、ここは教育現場に向けた提言のように読める。

正直に困難な道であるとは述べられるが、不可能であるとは思っていない。「不可能である」と思い込んだ方が楽な道である。しかし、それは先に述べたオプティミストの発想ではない。そして、オプティミストは、100%の子どもたちを成功させられなかったからといって諦めない。40%が50%になり、50%が55%になることを目指す。

問題は、性格≒非認知能力があるかないかではないように思われた。

必要なのは、それらの力を子どもたちが得る「推進力」の最初の一押しを、大人が子どもたちにどのように与えてあげるか、のメカニズムを大人は考えるべきだということだと思った。オプティミストとして。



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