カップ酒の真髄を教えてもらった本 〜いいざわたつや『カップ酒スタイル』〜
本書は、カップ酒というジャンルに焦点を当てて、その味わい方の真髄を極めたと言ってもいい一冊である。
と、まあ、そこまでいうと大げさなのかもしれないが、少なくとも、カップ酒というニッチなジャンルに対する偏見を、多少なりとも払拭した書籍であるとは、述べてもいいだろう。
船瀬俊介さんが、アルコール添加に関する批判的な書をものしたり、上原浩さんが、「純米」酒の世界を書き記したり、増田晶文さんが日本酒の転換について書き記したり、する中で、カップ酒は姿を消し、いわば「本物」で見栄えもいい日本酒が、巷では流行しているように見える昨今、カップ酒の居場所はどんどん少なくなっているような気もする。
もちろん、美味しい日本酒がバラエティに富むというのは良いことだ。
口に含んだ時に、アルコールの辛さと味わいがバラバラに感じられるような酒ではなく、米の甘さが舌の中央にドシッと落ち、そこから、果物の香りや、花のような香りが鼻腔に流れ、ノドの奥に向かって酸味がハラハラと散らばって、すっと後味が消えていくような複雑なストーリーを持った日本酒が増えることは大歓迎である。
けれども、何事も多様性に開かれている種が、生き延びていくのであって、原理的な美酒の追求だけを、各社が追ったら、それはそれで画一性に収斂されてしまう。カップ酒は、そのような多様性を包含する世界の指標なのではないかと思ったりする。いや、話が堅くなった。
とにかく、オッサンが帰り道に一杯ひっかけるスタイルの酒もまた、居場所というものが確保されていいし、私は今や、そうした文物へ親しみを感じるのである。
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本で喩えるならば、箱入り一升瓶が函付きの装幀本、一升瓶が大型本、4合瓶がハードカバー、カップ酒は文庫にあたる。カップ酒とは、そのように、持ち運びに便利で、どこでも飲めるという利点がある。また、特定の空間で文庫を読むと、その内容がとりわけ記憶の中に焼き付くのと同じように、特定の場所でカップ酒を開けると、気持ちの上がり方が二倍にも三倍にもなるのだ。
ただ、そうしたところに、4合瓶は大きすぎるし、大げさである。飲みきれない。しかも、ハードリカーは強すぎるし、缶チューハイだと弱すぎる。そんなちょうどいい酔いの演出にいいのが、カップ酒である。中身も、それなりに多様性に富んでいるし、存外美味しい。
私も、アルコール添加の清酒が、とか、カシスウーロンなんてリア充がセックスの前に飲む酒だろ、とか、そういうヤクタイもない発言をしていたころもあったが、今では趣旨替えをしている。
以前、山梨県が豪雪に見舞われたときがあり、私は、ちょうどそのとき特急に乗っていた。特急あずさの8号車と9号車の間には、電話をかけたりする、腰掛けスペースがあることを知っていたので、指定席がとれなかった私は、そこに陣取り、のろのろと動く列車を恨めしく思っていた。雪は積もっていき、もしかしたら帰り着くのは明日の朝になるかもしれないなあ、などと考えていた。
そのとき、ふと、車内販売で、長野県諏訪の銘酒である真澄のカップ酒に目がとまり、思わず購入した。まあ、酔えればいいや、なんて思っていたのが、大違い。そういう限界状況で飲むカップ酒は、本当に旨かった。甘露とは、こういう味であったか、という。
それ以来、酒とシチュエーションの組み合わせは、それなりに苦心して考えることにした。良い酒だから、と、状況を無視しては、いけないのだ、ということに気づいたのである。ようやく、またひとつ大人になれたような気がした。
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著者のいいざわ・たつやさんの企画で面白いのは、東海道五十三次カップ酒ウォークである。
こういう当人にしか価値のない企画というもので、人生が組み立てていければ、面白いことである。
そんな私も中山道でやってみたいと思ったりする。
ところで、東海道五十三次といえば、ご存知の野次さん喜多さん。案外、知っているのに読んだことのない『東海道中膝栗毛』は、やはり名作中の名作。こういうユーモア小説を書いてみたい。
いいざわさんは、この東海道の宿場町全てで、カップ酒を購入する旅を企画した。もちろん、一気通貫で行けるものではないので、ある週末に品川まで行ったら、次の週末は川崎まで、というセーブポイント企画だ。
私は、このセーブポイント企画が好きで、昔深夜番組で、B21specialが「one or eight」というくだらない突撃企画をやっていて、ローラースルーゴーゴーで金沢まで行く、だとか、ソープのマットレスを筏にして多摩川を源流から河口までくだる、という企画に胸をときめかせた。
そののち、深夜特急だかをベースにした進め電波少年の企画があったりしたが、どうにも、その「やらせ」や「だるい」部分を伏せるやり方には違和感を覚えたものだ。人間何だから、無茶するよりも、ゆっくりやろうよ、というわけである。その10年後くらい、有吉氏の低迷期に出た「我々は有吉を訴える」三部作は、私のツボに入った。人生全て楽屋である、というわけだ。
それはともかく、53の宿場でカップ酒といってもご当地に限るということではなく、とにかく、その宿場の近隣の酒屋や自販機で売っているカップ酒を買い求め、そこで飲むというユルい企画で、これくらいユルい縛りにおいて語られた言葉というのは、どこか、癒されるのである。
いいざわさんが、原の宿で白隠正宗の酒造の前で自噴湧水を汲むシーンがあるが、酒が醸されているあたりには、名水ありというのが鉄則で、私も、長野県の松本にいた時には、善哉の前に湧く水を、上諏訪にいた頃には、麗人の前で汲める水を所望していた。とりわけ、仕込み水を飲ませてくれる酒蔵というのは、品質に自信を持っていることが多かったようだ。そんな細かな振る舞いに、日々の喧噪を忘れさせてくれる、そんな一冊だ。
若山牧水のエッセイが好きなのだが、そもそも牧水、旅をして酒ばかり飲んでいる。詩情と酔いというのは、どこか似通っているのではないか、ということすら、想い起こさせた。
ともあれ、カップ酒というニッチへの愛着、この愛情の深さに私などは日々感銘を受けている次第である。
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