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本の廃棄を検討する 1

残念ながら、本を捨てないと、スペースが広がらない。したがって、少しずつ、本を捨てて行かなければならない。酒も同様だが、酒は飲めば減る。本は読んでも減らない。それが本のいいところでもあるが、困った性質でもある。

優先的に捨てられるのは、リサイクルで手に入れた新書のたぐい。その中には、特に興味はないけれど、もったいないと思ったから家に持ち帰ったものもある。いつか読むと思って、ここまで来てしまった。今読まなければ、未来も読まない。なら、もう、捨ててもいい。

ひとまず、目の前にあった新書を7冊ほど持ってきた。内容を検討して、捨てるかどうかを考えることにしたい。

東野治之『正倉院』(岩波新書 1988)

この『正倉院』は、ブックオフの100円均一で買ったものだ。定価480円で、税の記載がない。消費税が導入されたのが1989年4月1日なので、この本はそれ以前のものである。いつ購入したのかはわからないけれども、近代ばかりやっていてはいかんということで、教養のために均一コーナーにて購入したものだと思う。

これ一度読んだ形跡がある。パラっと見ると、記憶にある記述がある。ただ、歴史記述も発展している。この1988年段階での正倉院観と、2023年時での正倉院観には違いもある。それを追うほどの余力はない。

「正倉院」をキーワードにして、Amazonで出て来る本としては西川明彦氏の『正倉院のしごと』(中公新書 2023)がある。また、杉本一樹氏の『正倉院 歴史と宝物』(中公新書 2008)がある。東野氏の本を捨てても、この2冊が手に収まるのであると本末転倒な気がする。

したがって、捨てられない。

中村彰彦『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』(中公新書 2000)

この『脱藩大名の戊辰戦争』は戊辰戦争関連の文献を集めていた時に買ったものである。中村彰彦氏は、星亮一氏と並んで、旧幕側の掘り起こしに努めている論者なので、その流れで購入したものである。第1刷で680円+税となっている。

請西藩は木更津の方にあった譜代の小藩で、大名自身が脱藩して、戊辰戦争を戦い続け、降伏後、1941(昭和16)年まで生き延びた「最後の大名」林忠崇(はやし・ただたか)についての評伝である。これはなかなか良い本だ。

自分も幕末モノをいずれ書きたいと思っているので、当然ながら、この本も捨てられない。

本村凌二『ポンペイ・グラフィティ 落書きに刻むローマ人の素顔』(中公新書 1996)

これは、ブックオフで350円で買った痕跡がある。おそらくは、古代ギリシア・古代ローマ関連文献を集めていたときに、購入したものだろう。一番、今の私にとって遠い内容の本のように思われたが、ハワイの火災のことを思うと、こうした記録も捨てられない。

冒頭のプロローグだけに眼を通したが、これもまたいずれまた関心が高まる時がくるかもしれないと思って、とっておくことにする。また、間に挟まっていた「’99小学館サマーフェスティバルのお知らせ」は、前の持ち主がはさんだものだろうか。なんとなく、これも貴重な史料になるのかもしれないと、捨てずにはさんでおく。

高津春繁『ホメーロスの英雄叙事詩』(岩波新書 2008 第17刷)

これは2008年の第17刷だから、おそらくは古代ギリシアについてのマイブームの時に買い求めた本だろうと思う。どうして、古代ギリシアのブームが訪れたのかは知らないが、おそらくは、すべての本を読もうとするのはもう無理だから(中二的な欲望ですね)、古典的なものから順番に読んでいこうと思って、それを読むための本、それを読むために読むための本…とボルヘスのバベルの図書館よろしく、購入基準を広げていった結果、手に入れた一冊だと思う。

こんなのホメーロスの『イリアス』『オデュッセイア』だけあれば、用済みだろうと一瞬考えたが、パラパラと内容を読むと、これまた興味深い記述があって、捨てられない。前書きもあとがきもない、なんとなく、インディーズな感じの本なのだが、これが味で、残しておくことにした。

藤沢令夫『ギリシア哲学と現代 世界観のありかた』(岩波新書 1984 第4刷)

これもまた、古代ギリシアのマイブーム期に手に入れた本だと推測する。ただ、これは古書店での値段が「400」と記載されており、しかも、ハンコまで押されているものだから、誰かが放出したものを購入したのだと思われる。

先日、「ウィトゲンシュタインの助言」という小説を書いたが、そこで言及されたアリストテレスについての理解は、この新書の「アリストテレスの哲学と〈エネルゲイア〉の思想」の章がもともとの出発点になっていたと思われる。

けれどもアリストテレスは、このように人間がいわば運動体としてある行為・行動は、本当は行為でも行動でもなく、まさしく運動(キーネーシス)以外の何ものでもないのだと言いました。人間がたんに運動する物体ではないとすれば、人間が人間として行なうほんとうの行為・行動とは、これとは根本的に異なった─つまり、本質的に効率や能率の観念が入り込む余地がまったくないような─あり方のものではなければならないはずだと、彼は考えます。そしてそのようなあり方を、〈エネルゲイア〉(活動、現実活動)と呼んだのでした。

p.174

ちょっとこれも、捨てられないなあ。

丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』(講談社現代新書 1990)

これが一番読まないかなあ、と思いつつ、ブックオフで105円均一で手に入れたものだと判明する。たぶん、私に丸山圭三郎ブームが起きていた(いくつブームがあったのやら)時に、購入したもののような気がするけれども、さすがにもう丸山を「使う」ことはないような気もするがどうだろう。

1970年代の、マルクス主義からの知の変動のころに、精神分析や言語論という形で読まれた丸山圭三郎を、現代思想の変遷の史料としてとっておきたい気もするが、丸山の言説は、それそものが解読を逃れるものとして書かれているせいもあって、読んでてちょっとキツイところもある。

本書のねらいは、『欲動』で自らの宿題として残しておいた虚構の〈美〉と〈生の円環運動〉の関連を掘り下げること、そしてあくまでも日常の現実に即した具体例から出発することであった。

p.213

そんなこと書いてあったのか、と思ってしまうあとがきであるが、こうした横滑りの快楽というか、いわば言語の深層部分のうねりを言葉にしようと思っているから、こんなふうになるんだろう。そういう意味では、こうした文章はもう今後一切出版されなくなる(売れないし、読まれないから)ので、やはり捨てるにしのびない。

〈生の円環運動〉というといささか抽象的に聞こえるかも知れないが、これは人間(ミクロ・コスモス)の意識と身体の表層・深層と意識以前のカオスの間を螺旋状に動く円環であるとともに、大宇宙(マクロ・コスモス)の〈時間〉の流れでもありその軌跡としての歴史でもある。

p.213-214

《なんでも入ってる》ということだと思うけれども、こうした抽象を具体的に説明しようとして、より抽象的になっていくエクリチュールが、懐かしいと言えば懐かしいので、これも捨てずにおくことにしよう。

A・ゴレア『現代音楽の美学』(ムスルジア全書 音楽の友社 1973 第7刷)

これは正確にいうと新書じゃないけど、内容的に現代音楽なるものの資料を集めようとしたときに買ったものだと思われる。中川書房の300円の値札がある。しかし世田谷区松原にある中川書房に自分が行ったことがあるかというと心もとない。もしかすると、古本即売会の中で、買ったものかもしれない。横に破り取った跡があるから。

この本は、19世紀から20世紀への作曲家の思想的変化を眺めるのにちょうどいい。ただ、楽典的な素養がないと最終的にはわからないので、自分的には音楽はもうこれ以上理解するのは無理っぽい。なので捨ててもいいかなと思う反面、もったいなさもある。

ひとまずは、ペンディングにしておこう。新書ではないしね。ただ、現代音楽の「美学」についての研究は、1973年の段階から、もう少し進んでいるだろう。Amazonを見ても、ちょっと気になる本が多い。この分野について、久しくフォローしていなかったけど、今後は趣味としてやっていきたくもある。それこそエネルゲイアとして。

誰かの署名がある。こうした署名を辿っていくミステリ小説を構想したこともあるけど、途中で潰えた。もう一回書いてみてもいいかもしれない。

以上、何も捨てられない、という結論に至りました。




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