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「エリザベス」と「狂った一頁」 ~雑記・雑感3〜

ワクチン四回目。

ファイザー×ファイザー×ファイザー×モデルナ。

なるほど、液量が今までのよりも少ないのか、熱は37.1くらいで翌日には治まった。しかし、いかんせん、上半身のだるさと頭痛は残る。

水曜日は午前中、快活に活動できたものの、午後になるとまた頭痛と腕、腋、首筋の腫れが感じられ、熱を持ち、痛い。これがモデルナアームというやつなのか。なのでロキソニンのお世話になった。そのせいなのか、胃が痛くなって、夜は苦しかった。

木曜日はやはり昨日よりは回復し、ゴミ捨てだのなんだのと精を出せた。気力も湧いてきて、市場併設のスーパーに行って食材を見て回ることもできた。しかし、やはり子どもたちが帰宅するころになると、頭、腕、腋、肩に痛みが。少し寝て、夕食をつくるころには、痛みは治まった。ロキソニンは飲んでいない。

さて、それよりも、このグダグダの中アマプラで、『エリザベス』(1999)と『狂った一頁』(1927)を観たことくらいが、この数日の文化的活動だったようにも思う。

別にチューダー朝がとりたてて好きだというわけではないが、やっぱりヘンリー8世だの、ブーリン家の姉妹だの、エリザベス1世だのと、劇化されることの多い時代で、偉大な劇作家が存在した時代なのだから、私のように座ってられない人でも目にする機会が多いのは当然である。

『エリザベス』(1999)

「エリザベス」とは、有名な大英帝国の礎を築いた女王「エリザベス1世」のことである。

世界史の教科書(詳説世界史B)では、しかし、結構あっさりと触れられているのみである。

イギリスでは、国王ヘンリ8世がスペイン王家出身の王妃との離婚を認めようとしない教皇と対立して、宗教改革が始まった。彼は1534年の国王至上法(首長法)で国王がイギリス国内の教会(国教会)の首長であると宣言してカトリック世界から離脱し、さらに修道院を議会立法で廃止して、その広大な土地財産を没収した。つぎの女王メアリ1世はスペイン王室と結んでカトリックを復活しようとくわだてたが、エリザベス1世の治世になって、1559年の統一法でイギリス独自の教会体制が最終的に確立した。イギリス国教会は、ほぼカルヴァン主義を採用しているが、司教(主教)制を維持するほか、儀式の面でも旧教に似かよった点を残しているため、ピューリタン(清教徒)と呼ばれた人々はカルヴァン主義をより徹底することを求めた。

p.212

私は英国史を専門に学んだことはないため、この教科書の記述の苦心したところがわからないが、それでも、日本人が世界史を学ぶときに必要な、近代諸国家に至るまでに、どのように宗教対立を国王が調停し、その結果王権の拡大を図った(図れた)のか、という問題に関してイギリスの場合の回答を描こうとしていることはわかる。

私たちの時代は、結局こうした世界史的協約性よりも、各国史という形でまとめなおされて学んだ。なので、宗教改革と王権の拡大、地方におけるジェントリによるエンクロージャー(農民から農地を買い上げて、羊毛のための牧場に転換する現象)の進展、毛織物を売り込むための海外市場の開拓、制海権とオランダ独立および宗教的対立の果てにスペインの無敵艦隊に勝利すること、などが垂直にまとめられた。

そのことは別のページで書かれている。

イギリスの王権はテューダー朝のもとで強化されたが、統治にあたって国王は、議会で地域社会を代表した、ジェントリ(郷紳)と呼ばれる大地主の自発的協力を必要とした。1530年代に始まる宗教改革で国王は国内の教会組織の頂点にたち、16世紀後半のエリザベス1世のもとで新教国としての国民意識が形成された。宗教改革が議会立法をつうじて達成されたことは、イギリス絶対王政における議会の重要性を示している。

p.218

逐語的に読むなら、例えば「エリザベス1世のもとで新教国としての国民意識が形成された」という時、「国民」とは何か、「国民意識」とは何か、それらが形成されたというのは、何を通じてどのようにしてか、という問いが出てくる。しかも、日本語の「国民」「国民意識」は英語だとなんと表現されて、日本での理解とどのように異なるのか、などという問いもあるだろう。

映画の中では、カトリックを信奉して新教徒を殺したメアリ1世によって幽閉されるエリザベス。しかし、なんとか生き延びて女王になるエリザベス。礼拝統一法を多くの廷臣の前で決定する場面は、なかなかのもので、実際にああいう感じだったのかどうかはわからないけれども、分裂した組織をまとめ上げる感じは良かった。

色々な人に政略か愛か、微妙な求婚を受けるとともに、そんな愛する人を反逆者として処刑しなくてはならず、そうした悲しみを王権的なものの確立によって振り捨てる。人間「エリザベス」の心の葛藤の剔出がこの映画の主題だ、などと陳腐な表現で言ってみたくもあるが、いずれにしても、教科書におけるエリザベス1世の記述を読んで映画を見ると、理解できる部分が増えたような気もした

『狂った一頁』(1927)

監督・衣笠貞之助による戦前のサイレント映画の傑作。サイレントと言いつつも、音楽は聴こえてるよね、ということで、純粋なサイレントなのかはよくわからない。上映できないなんて言われていたが、アマプラで観れるよ、ということで観た。昭和初期のモダニズムが縦横に感知できてよかった。これまた陳腐な感想。

サイレント映画は、ナレーションや会話の中での説明的要素が排除されている分、映像で関係性や文脈なんかをとる練習になる。もちろん、当時は弁士がおり、ナレーションしていたようだが、そもそも最初からおどろおどろしいイメージのモンタージュの連続が、体調の悪さとシンクロして、なんとも言えない気持ちになった。

小学校のときに観ていたら、きっと虜になったろうと思いつつ、あの時代は乱歩の少年少女リライト全集で充分満足していた時代。理解も何もできなかったろうなあ。

1900年代、ロイ・フラーという人が、キモノみたいな衣装の袖をひらひらさせて踊るダンスが流行したが、冒頭そのダンスっぽい映像などもあった。悪夢のようなイメージへと最後突入していく部分は、なんとも言えぬ気持ちにさせられたが、『ドグラ・マグラ』が好きな人は観ておきたい。

とりとめがなくなった。

ともかく、少し書けるまでは復活できました。

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