太宰治「川端康成へ」

情けないことに、右折禁止違反を取られて、無駄に7000円が消えた。

右折しようとしていたところ、何か合図してくれていた爺さんがいたのだが、急いでいたのでそれを無視してしまった。

人の忠告は素直に聞くことが大事、と胸に刻んだ朝だった。

さっそく銀行で振り込んできたわけだが、忿懣はおさまらない。自分が悪いことは理解するが、わざわざ待ち構えている、というのが気に入らない。右折のところで注意していればいいではないか、と思う。

ただ、警察にアレコレ言ったところでどうしようもないから、とりあえず太宰治の川端康成に対する文句エッセイでも読んで、気を紛らわせることにする。

太宰の「逆行」という作品が芥川賞候補になった時、川端に落選せられたことを根に持ち、川端に対する批判というか忿懣をぶちまけたのが、「川端康成へ」である。さほど、文学的に何かが付け加わるような内容のエッセイではないが、今思えば、川端康成のゴーストライター的行為を告発しているかのように読める内容もあり、「わかるぞその忿懣」と思える。

太宰は『道化の華』の評価において、川端が太宰の芳しくない私生活に触れ、そこから作品を判断したように疑っている。

これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章に違いない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。
p.1

川端は、『少女之友』に連載していた『乙女の港』という作品について、中里恒子と共同執筆していたことが現在明らかになっているが、それは、このエッセイのもう少し後のことになるので、太宰が川端のそうした振る舞いを暗に批判していたとはいえないだろうが、意外に「刺」していたのではないか。

小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。
p.3

人は人を裁かなければならないというのは全く大変なことですよね。突き詰めれば、二者の力に還元されてしまいがちな、二者関係の序列。今まで私たちは権威というもので、その序列を自然なものとして受け入れていたわけですが、権威の中に腐敗が生じると、どうしてもその権威の根拠づけと正統性を疑いたくなってしまいます。

私は、腐敗するのも人間だと思います。堕落するのも人間だと思います。もちろん、一律に取り締まらなければ、権威の根拠を失ってただの身勝手や縁故や「お気持ち」が跋扈する世になりかねない、その取り締まる人の裁量に任されかねないという危惧もわかります。それでも、なぜ、このタイミングで俺なのか、という忿懣は消えようが無いのです。

太宰は、さらにこう言う。

私はいま、あなたと智慧くらべをしようとしているのではありません。私は、あなたのあの文章の中に「世間」を感じ、「金銭関係」のせつなさを嗅いだ。私はそれを二三のひたむきな読者に知らせたいだけなのです。それは知らせなければならないことです。私たちは、もうそろそろ、にんじゅうの徳の美しさは疑いはじめているのだ。
pp.3-4

学校で、「だ、である」と「です、ます」を混ぜて使ってはいけませんと指導されることが多いが、そんな警察みたいなことどうでもいいじゃないか。正直、リズム感やトーンの上下が適切ならば、「です」でも「だ」でも、もうどっちでもいいよ、と太宰を見て思う。

基本は、第一回芥川賞の石川達三「蒼氓」が選ばれ、太宰が選ばれなかったことに対して、無難なものを選びやがって、世間に迎合しやがって、という忿懣で、しかもそれが川端主導で行われ、菊池寛も「まあ、それでもよかった。無難でよかった。」と賛意を示しているところに、太宰は怒っている。

川端はホントは俺の作品を選びたかった(はず)が、世間に媚びて、選ばなかった、そうだろ?と太宰は、変な取り入り方もしている。人間味あるねえ!

なんというかわかるよ。いずれにしても誰か、違反切符切られた後の人間行動について調べてみてくれないかな。違反切符切られた後に苛立って人はもっとよろしくないことを目論んでしまったり、すぐカッときて、他の人にあたっちゃったりということもありそうだから。正義を成したつもりが、より大きな悪い事態を引き起こしていることはないのか。

ま、俺は善人ではないですわ、たぶん。

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