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クライスト「チリの地震」

今日は、雨も降っているので陰鬱な物語でもどうだろうか。いや、「陰鬱」と言ってしまうと、少しニュアンスが違うように思うのだが、本棚の中から引き抜いた一冊はドイツ・ロマン派のイケイケ、ハインリッヒ・フォン・クライストであり、この短編集の中から「チリの地震」を紹介してみようと思う。

「チリの地震」にはもっと新しい訳がたくさんある。なので、無理に岩波文庫版で読む必要はないと思う。私の場合、岩波文庫の復刊リクエストが出るたころに、おそらくはブックオフで350円で入手したものと思われる。入手時期は覚えていないが、2006年以降のことではなかったか。

この『O侯爵夫人』は、確か表紙のないボロボロの文庫本を図書館で借りて、シュレーゲル兄弟やホフマンスタールなんかと一緒に、ざっと読んだ記憶だけが残っている。目的があったわけではなく、多数の本を借りては、急いで読んで返す、というルーチンを課していたころのことなので、個々の短編は記憶に残っているわけもない。

実際読んでみて、こんな内容だったっけ、と感嘆しきりであった。

あらすじ【オチあり】

チリの首都サンチアゴにイェロニモ・ルジェラというスペイン人が、当地の富豪貴族ドン・エンリコ・アステロンの家で、家庭教師をしていた。このルジェラ、この家の一人娘ドンナ・ヨゼーフェと恋仲に落ちてしまう。それで、この家から遠ざけられてしまうが、二人の恋は終わらない。なので、ヨゼーフェは尼僧院に入れられてしまう。ところが、密会は終わらず、妊娠が発覚し、子どもは生まれたが、裁判にかけられることとなる。当然、イェロニモは獄につながれている。聞くところによると、ヨゼーフェは斬首。その日が近づいてきていた。

そこに、1647年、大地震が起きた。ヨゼーフェの処刑の当日。イェロニモもまた首をくくろうとして、用意していたさなかの出来事であった。イェロニモは、倒壊した家屋から脱出、ヨゼーフェをもとめてさまよいあるく。あきらめかけていたその時、ヨゼーフェをみつける。二人は再会を喜ぶ。

ヨゼーフェはヨゼーフェで、引き立てられていくさなかに、地震が起き、逃げることができた。自分の子どもを取り戻そうと、尼僧院に戻ると、ちょうど尼院長が子どもを抱きかかえて、逃げまどっていた。子どもを受け取った瞬間、尼院長は上から落ちてきた破風によって圧死。そうして、さまよっているところをイェロニモとであったのである。

翌日二人はこのまま逃げてスペインに渡ろうと考えていた。するとそこにヨゼーフェと顔見知りのフェルナンドーが現れる。フェルナンドーは、自分の妻が負傷したので、子どもに乳をあげてほしいと頼む。頼みに応じていると、フェルナンドーの家族もそこにいて、なにやら自分にとても親切にしてくれる。みんな自分を犯罪者として白眼視しているように感じていたが、こうした地震が起きたことで、「ただ人のたましいのみは美わしい花の如く咲きでるように思われた」のだ。

そこでイェロニモは、こんな天変地異があって、社会状況が一変したのなら、スペインに渡るのは思いとどまってもいいのではないか、と言う。結果、2人はラ・コンセプションの町にいき、そこで赦免を願うことにすることに決める。

地震も収まり、日常も安定してきたころ、「あるドミニクス宗の一寺院」だけは倒壊を免れたので、そこでミサをやるから、みんなで行こうという話が持ち上がる。フェルナンドーの妹であるエリーザベトだけが、胸騒ぎがするといって、留まることにする。イェロニモとヨゼーフェの子どもを受け取ろうとするが、あまりに泣くので、結局、連れていくことになる。

ミサが始まる。そこで、地震は天変地異の前触れとみなされ、その原因は風紀の乱れにあると説教される。そして、「一つの声」が、イェロニモとヨゼーフェを弾劾する。つかみかかる群集。一緒にいるフェルナンドーをイェロニモと勘違いして襲い掛かってくる。そこで、フェルナンドーは、自分は総督の息子であるというが、群集はヨゼーフェの抱いたフェルナンドーの息子が泣いて父のもとへ戻ろうとするのを見て、フェルナンドーがイェロニモだと勘違いしつづける。

イェロニモは、これはヤバい、と「自分がイェロニモ・ルジェラである、暴行したいなら自分をやればいい」と叫ぶ。群集は一度そちらをみる。フェルナンドーは一計をめぐらす。通りかかった友人の海軍士官であるアロンツォに、「この立派な方が仮にイェロニモ・ルジェラと名乗って」くれなかったら、今頃はやられていたでしょう、と述べる。しかし、群集は収まらない。「アロンツォ様、あなたの良心にかけてお尋ねしますが、この女子はきっと、ヨゼーフェ・アステロンではないと仰りますかい?」。アロンツォは口ごもる。

イェロニモがこん棒の一撃で倒れる。一緒にいたフェルナンドーの義妹コンスタンツェも、ヨゼーフェと間違えられて殴られ息絶える。フェルナンドーは、子ども二人を抱えて応戦。ヨゼーフェが自ら群集の中に飛び込み、殴殺されているうちに、なんとか血路を開くも、追いつかれ、抱いている二人の子どものうちの一人を奪い取られて、殺される。これで、群集は気が済んだのか、四散してしまう。

フェルナンドーは家に戻り、遺体を回収し、アステロン家に送ったり、色々な後始末を行ったあと、ことの顛末が夫人に知れる。夫人は悲しむが、遺されたイェロニモとヨゼーフェの子どもを自分の子どもとして育てることにする。

感想【オチあり】

いやあ、悲劇的でしたね。あのままスペインに逃亡していれば、と誰もが思うことでしょう。地震が、二人の未来を開いたのに、地震が二人の未来を閉ざしてしまったのだともいえます。災害のときに現れる、自生的な相互扶助状態と、狂騒的な群集の暴虐の二面性が、悲劇のバックグラウンドをなしていて、面白いと思います。

それにしても、いやーよかったー助かったー、からの、デビルマンの結末状態への転調は、さすが劇作家クライスト、ドラマティックです。適当にこの言葉使っていますが、古い文字フォントと、途中で出てくるコンスタンツェって誰?というところさえ抜けてなければ、大変に現代的ですらあります。予言をしても聞いてくれないカサンドラ的なエリーザベト、道ならぬ恋の悲劇的な結末、人違いによって分岐する運命、など、短いながらもいろいろな先行作品を思い起こさせてくれる、名作だろうと思います。

「良心」ゆえに嘘がつけない、だとか、別の子を自分の子として育てる、だとか、現代日本においてはなかなか見られない美徳がありますが、一方で、群集は偉い人の息子だろうとなんだろうと、処罰感情を発散させなければ収まらないのだなあ、と昨今のネット炎上事件などと引き比べながら、人間の本質はそう変わることはないのだなあ、と思ったり。

ただ、最後の締めの言葉「フェルナンドーは、フィリップと亡きホアンとをひき比べ、またその二人の子を得た時のことを思い比べれば、むしろ今が悦ばしくさえ思われるのであった」は、最初、なんてフェルナンドーって、自分の子どもに冷淡なんだ、と思ったりもしたけれど、二人いたら、きっと自分の子どもに甘く、フィリップ(ヨゼーフェの子)には冷たくしちゃいそう、という感情があったんだとしたら、一人でよかったかも、と思うのはあながち間違いではないかもなあ、と思ったり。

現代的な教訓を読み取ったり、先行作品の影響をひたすら読み取ったり、という読解はどっちにしても、批判は免れないと思うものの、どうしてサクッと逃げなかったかなあ、と思ってしまう。昔だから、当然移動するにもリスクはあっただろうが、それでも、やはり一度重罪を与えられていたわけだから、逃げちゃってもよかったよねと思う。

道ならぬ恋は、やっぱりしない方がいいよね。

凡人の感想でした。

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