結婚指輪に涙した話
小生、結婚時には60kgくらいでした。
背は低いとはいえ、がっしりした体型、イケメンと言われたことはありませんが、まあ、偏差値50、その程度の自負はあったわけです。
しかし、就職した所にいたパワハラ上司、これに目をつけられたこともあって、ストレスが溜まり、みるみるうちに体重は増えていきました。暴飲暴食。この時の不健康の蓄積が、のちの私に影響を及ぼしたんだろうと思ってます。
いずれにしても、甲状腺機能亢進症と診断されたのは、ちょうど、震災前のこと。表参道の伊藤病院に、継続的に通う日々が続きます。
服薬によって、治療が開始され、代謝の亢進は治まり、食欲等が過剰になることは、なくなっていきました。本当はそうでした。本当ならば。
習慣というものは恐ろしいものです。食欲はすでにかつてのようにはないはずなのに、つい食べ過ぎてしまう。かつては食べても、代謝がいいので、少しずつ痩せていってました。その感覚だけが自分の中にあったんでしょうね、どんどん肉がつき、重くなり、階段を上るのも、辛くなる。
気づけば、80kgの大台を超えていました。
パワハラ上司はどうなったかですって?
これは私が半沢直樹ばりの逆転劇で、意趣返しを成功させました。痛快です。ザマアミロ。2chに投稿してもいいくらいの「パワハラ上司の発言、全部、録音して、社長と副社長に聞かせてみた」風の活劇があったのです。多少の誇張はありますが、パラハラ上司は、辞めていきました。
ところが、それに気分を良くした私は、風通しの良くなった職場を祝い、やはり暴飲暴食を繰り返してしまった。85kgを超えたところで、ハタと気付き、人生を控えめにすることにしたのです。
子どもも生まれ東京に引っ越してきまして、人間ドックというものをやるようになったのです。そこで初めてやった胃カメラ。
「うーん、ちょっとした腫瘍のようなものがありますね」
「えっ」
「でも、良性っぽいので、来年また検査して変わらなければ、大丈夫ですよ」
時限爆弾のようなもの。私は心配性なので、以前のような暴飲暴食を控え、体重は82kgから84kgの間を行ったり来たり。
けれども、肉はついたまま。まあ仕方がないのか、と諦め、このまま低空飛行を続けていくのがいいんだろう、と思うようにしました。普通の飲、普通の食。
しかしながら、今まで気にも留めなかったエコー検査。肉が多いせいなのか、技師さんが、アーとか、ウーとか言いながら、かなりの時間がかかっている。胃カメラと血液検査のほかに何が?と思っていたら、
「胆嚢にポリープがありますね。まあ、まだ、大きくはないので、このままのサイズでずっといく人もいますよ。大きくなったら取りましょう。」
むむう。
ポリープはほっとくとガンになる。
そんなイメージしかないポリープ。大腸のそれなら、内視鏡で取る。でも、胆嚢は、そうもいかないので、経過観察。そんな風に聞いた。
また、時限爆弾か。
もちろん、そんなに大袈裟なことではない、ということも知っていた。けれども、生来の心配性と、自己劇化の道化の末裔を誇る私(←面倒くさい)ゆえ、ああ、いつか自分もなんらかの形で五体満足ではいられないんだ、とハムレットぶって、甘い自己憐憫に浸っておったわけです。
ところが世の中は、変な方向に向いていく。
例のコロナ禍が、喧しく言われるようになり、うつりたくないからと理由をつけて、人間ドックを一年飛ばしてしまったのです。
胃カメラをやるのがやっぱり嫌なのと、ポリープがでかくなったら手術…そんな現実に直面したくない、そんな小心によって、お家時間の甘いゆりかごに浸り切っていました。
こうなってくると、楽しみは食と飲、それしかありません。そもそも引きこもり体質である私に、社会は、いい口実を与えてくれました。料理を極める。そんな建前によって、高級食材を取り寄せて、やれ海鮮だ、やれ和牛消費を増やすんだ、そんな調子で、再びの暴飲暴食期に突入して、いったのです。
情けなや。
皆さん、結婚指輪にどこで涙するのか、どこにも結婚指輪の「ゆ」の字も出てこないではないか、いったいどういうことなのか、疑問にお思いでしょう。
そう。
2024年の人間ドックで、コロナ禍明けの検査で、少しづつ大きくなっていったポリープが、とうとう我慢の限界を超えた、と聞かされたわけです。すわガンになったのか。ここには医療関係者もこっそりと多数おられましょう。この種の心配が、多くの場合は杞憂に過ぎないことも、先刻ご承知のことと思います。
なんやかやとあって胆嚢ポリープを取ることを決断し、手術と入院の日取りを決め、事前の検査を粛々と行う、そんな段取りへと行き着いたわけなのです。
先々週CTスキャン。つつがなく終わりました。
今週はMRI。
一度MRI検査はやっていたので、狭いところで体を固定されて、音のうるさいアレね、と余裕綽々でした。
MRI検査は、身の回りの金属を全部外さないといけない。体の中に手術で、金属が埋め込まれていないか、ピアス等つけていないか、そんなことをあれやこれやと準備して、検査に向かうわけです。
CTスキャンに比べて、全然楽勝、早くおわんないかな。麻酔科の問診を終えて、若干の空き時間を過ごす私は準備万端、検査開始30分前よりも5分早く、受付にいって、検査の前にも快活な私をアピールするといった、面倒な患者を演じていたのです。
そして、待合室で、残り30分、暇だななんて考えていると、一つ前と思しき方が、更衣室へと滑り込んでいきました。さあ、俺の番だな、と、勇み立っていたわけです。
いやあ、色々とあったな、人生、と、指を眺めていたのです。
「ん?」
私の指には結婚指輪がついていました。
「これも?金属だぞ?」
受付の方に聞きました。
「あの、これも金属ですよね?」
「そうですねー、外していただければ」
「わかりました」
私は結婚指輪を引っ張った。少し上の方に動くも、肉が引っかかって、当然動かない。
時間がない。焦る。
強く引っ張る。ダメだ。鬱血してきた。どうやっても第二関節のちょい下までしかいかない。
消毒用アルコールがジェルタイプなら。
プッシュ。塗る。気化して、乾く。
役立たず!
心の中でわめていた。
時間は刻々と過ぎていく。
もう一度、受付の方に、訊いた。
「石鹸とか付けてね、取られる方も多いですよ。あ、でも、それは厳しいかもしれませんね」
私の指を見て、そう言う。
「ああ、赤く腫れ上がって…」
知ってる。俺が一番知ってる。
取れないかも。また別日?それは嫌。
トイレへ駆け込み、プッシュ式の石鹸、手につけました。指に伸ばしていきます。こんな時に限って、無駄にトイレは混んでいて、次から次へと人が入ってきます。
それどころじゃないんだ、俺は!
石鹸の威力。苦労して、動かした第二関節の下まで、スムーズに動いたのです。
キタ!
けれどもそこからが難所でした。そもそも関節がギリ通るくらいだったところに、不摂生の20年間に貯めた肉がのって、明らかに通らない。
けれども、入れたものは抜けるはず!
うんとこしょ、どっこいしょ、大きなカブは抜けません。
そんな声がかすかに聞こえてきました。
youtubeで動物の罠動画をたくさん見た罰なのでしょうか。指の肉を千切るしか方法はないのではないか。
しかしです。コケの一念。少しづつ下の方から、抜けて、きている、痛い!猛烈な痛みが指を襲います。指輪に締め付けられて、肉が悲鳴をあげているのです。悲鳴をあげたいのは、こっちだよ!
やや肉の薄い腹側からまずは滑らす。肉を一度上にたくし上げ、下が移動し切ったら、今度は上の肉を下に戻す。細かい作業、時間は少しずつ迫る。走れメロス!
涙が出てきました。でも、いける!格闘数分、ここまできたのだから肉を切らせて骨を断つ。指よ折れよ。怪我してまで、青葉中戦を投げ抜いた『キャプテン』の谷口くんの想いが伝わってきました。
苦節、五分。大きなカブは、抜けました。顔は赫く、指は腫れ。
「取れました!」
「あら、よかったですね!」
呑気な声。
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検査10分前。
ギリ間に合い、ホッとする。
「〇〇さあーん」
「はい!」
俺、涙目。
取れてよかった。
脱力。
MRI検査も終わり、最後の診察と説明。
なんだか右手の中指の爪が痛いな。
アッ!爪が真ん中だけ凹んで折れてる!血も出てきた。
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戦いのあとがしのばれます。
結婚指輪に涙した、そんな話。
どんどはれ。