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【修正・追記】遠藤周作「召使たち」(『母なるもの』所収)

今日は、夢の国に終日付き合ったので、疲れ、新しいものは何も出せない。だから、昔の文章を少し脚色して出そうと思う。遠藤周作関連の投稿を多く見ていただいているようなので、その続きと言ってもいい。

※※※

遠藤周作の『沈黙』について、2017年1月に少し考えていた。

司祭たちが拷問に負けず殉教していく姿について、死ぬくらいなら転向して生きながらえる方が幸せなのではないか、と素朴に考えていたものだが、最近、少しその考えが変わってきた。

なんにせよ、自分が今まで信じてきたものに背を向けて生きる、というのは意外に難しいということだ。

例えば、文章。

私の書き方は、ある時代に流行していた書き方(これを「例の文体」と呼ぼう)が元になっている。

誰でもそうだが、文章は自分が読み書きしていく中で、他者(具体的な個人ではなく、模範的文章でもいい)の文章を範例として真似ることで修得される。私は、文章自体を教わったことがないので、自分が好んで読んでいた文章を書いた人のように書き始めることで、文章を自覚的に学んだのだと思う。

だから、読みにくい、と言われるが、私自身はあまり読みにくさを感じないので、齟齬が生まれる。

これ以上、読みやすくしたら、込めたい内容が削られてしまうと思ってしまうし、全体を覆うムードというものが壊れてしまう、とも思う。たぶん、人は、そんなことないだろ、と思うのだろうが、この彼我の差というものは、なかなか縮まらないものだ。残念ながら、固着したスタイルというものは、そういうものであろう。

でも、この書き方では商品にならないどころか、伝わらないおそれもある(今まであなたは何かを伝えようとしてきたのか、という指摘は甘んじて受ける)。

だから、分かりやすい文章に変えようと思うし、語彙も比喩も、古くなってきたので減らそうと思う(そんなに変えられないところが問題なのだが)。

けれども、書きあぐねた際に、自分に素直になってみると、「例の文体」が出てきてしまう。直す、直しきれない、面倒だ、となる。暑くて、前日に深酒をしていて、胃が痛かったりすると、それがてきめんに脳に反映するようになってきた。面倒で、死にたい、という気持ちになるものだ(深酒をするなよ、と言いたいのはわかる)。

神を信じるというのは、単に気持ちだけの問題ではなく、生活習慣や思考の構え全体の慣行も含んでいるのだとするならば、それを枉げて生きるのは結構ツラいし、面倒だし、いいや死んじまえ、となるのかもしれないなあ、と思った。

この『沈黙』に登場する転向司祭のモデルはジュゼッペ・キアラという。

彼のその後と幽閉住居跡については、一般に知られているが、そこには、一緒に召使として暮らしていた「長助と春」という夫婦ものがいた、という。

この長助と春について書かれた小説が、遠藤周作の短編集である『母なるもの』の中に所収されている。

それを「召使たち」という。

他の短編が、遠藤目線で書かれた造形物なのに対して、「召使たち」は長助と春の実態を追ったドキュメントのようにも読める。

キアラを看取ったあと、シドッチが潜入し、捕縛され、彼等の勤務する軟禁牢に連れてこられる。長助と春が、ふたたびシドッチの召使として仕えることになるのだ。

長助と春は、罪人の子として生まれ、「官奴」として使役される。2人は結婚させられ、キアラなどの幽閉された異人たちの世話をさせられる。キアラが亡くなったところで、お役御免にならないところが、鎖国政策や身分制度の根の深さを感じる。キアラと接触して、その信仰に彼らが帰依する危険性があると幕府も見ていたからこそ、一生「官奴」として使役する心算でいるのだろう。

果たして、シドッチは来た。シドッチとは6代将軍の頃に日本に来て捕縛、幽閉され続けた宣教師である。そのお墓が小石川で見つかったという報道が2014年にあった。そして、その横には二人の遺骸があったとも。シドッチに聞き書きした『西洋紀聞』などが有名。

後世の学者にとっては、貴重な史料である「西洋紀聞」だが、確かにシドッチにとっては屈辱でしかなかったろう。

シドッチに対して、新井白石は、転向させるという手段を取らなかった。すでに、江戸幕府の体制は確立し、拷問による転向というシンボルがもはや用済みのようなものだったからだ。そのため、軟禁牢にて幽閉し続ける、という終身刑的な対応で済ませた。

シドッチは、長助と春に教えを授けたのかもしれない。いや、そもそも、長助と春は、半ば信仰者だったのだろう。それが「自首」によって露見して、緩慢な毒を含まされ、2人は死ぬ。程なくしてシドッチも死ぬ。

このプロセスを、遠藤は「召使たち」で書いている。

遠藤が強調するのは、長助と春がシドッチ含め幽閉されている異国人たちに限りなき共感を抱いていたはずだ、という思いである。史料には、こうした二人の動機など書かれているはずもない。心情面こそ、小説家が自由に描かねばならないポイントであり、それだけに作家個人の感覚が投影されやすいものだ。

長助と春は、社会から疎外されていた。シドッチは、故郷に帰ることも許されず異国で朽ちようとしている。ここに、両者が心を通わせるポイントがあった、という。

こういうところに、遠藤のメロドラマ性が顔を出す。

長助と春は「罪人の子」であり、それがために「官奴」になった、と書かれている。いわば「非人」層にあたる。しかし、この2人は、官命によって婚姻させられている。婚姻が幸福であるというのは、現代の幻想だが、しかし世帯を持てぬ「非人」もいるわけだから、多少の便宜と言えるだろう。外に出れば、「非人頭」の組織に組み込まれるわけだから、官奴として軟禁牢で仕事を持つことは、必ずしもマイナス面ばかりではない。

「官奴として育てられ」と書かれているから、もちろん、奴隷的な扱いであったのだろうが、異人を待遇する教育を与えられている可能性がある。特に、言語的な部分については、二重スパイのような振る舞いもしたのではなかろうか。もし、言語がわからないでシドッチの世話をしていたのだとしたら、単純な作業は出来ても、込み入った教えを理解するまでには至らぬだろうし、そうでないなら、幕府だって2人がキリスト教に帰依する可能性を考えて、一生外には出さぬだろうし、そもそも、妻帯させないだろう。妻帯させることで、片方がキリスト教の教えに帰依するストッパーの役割を果たすことを、幕府が念頭におかなかったとは考えられない。いずれにしても、長助と春は、無学ではなく、それなりに忠実で能力があったからこそ、この任務を長く続けることが出来たのではないだろうか。しかも、幼いころから官奴として育てられてきたわけだから、思想教育だって、それなりにほどこされていただろうことは想像に難くない。

そして、彼等の「自由」と「意志」が奪われていたことを嘆くが、江戸時代において「自由」も「意志」も限定されたものに過ぎなかったということはある。観念自体が未発達だった。「非人」身分が、「自由」や「意志」に想いが馳せられたか、となると、現代の我々だったらそういう想像も出来ようが、その時代に即して考えれば難しかったのではなかろうか。これが定めである、となれば、それを嘆く、という感情がほとばしることは考え難い。

彼等はこの遠い国から日本に来て屈辱だけにまみれて生きているキアラこと三右衛門に自分たちの似姿を感じ、自分を憎むように彼を憎んだこともあったろう。三右衛門もまた、生涯、官奴として生きねばならぬ彼等におのれを見つけ、時には烈しい憎悪を感じ、時には相擁して泣きたい気持になったであろう。やがてそれらのまだ夾雑物のまじった感情が歳月と共に濾過されると、次第に相手をいたわる憐憫の情に変わっていったに違いない。

本当だろうか。そうした気持ちがなかったとはいわない。キアラは、転向して、40年ほど、牢(といっても、小日向の屋敷の中なのだが)で過ごす。妻帯しているので、いわば家族ぐるみでの付き合いを、長助と春とは行っている。ただ、長助と春は彼等だけではなく、他の入牢者の世話もしなければならない。それが仕事だからだ。しかも、その間は、たとえキリスト教に帰依していたとしても、ボロを出してはいないのだ。

シドッチが捕縛された頃、長助や春も45、6歳。そこから6年後なので、もう50は過ぎたころに、長助と春は自分たちはキリスト者になりました、と自首する。そして、別々の牢に入れられて、毒を含まされ、死んでしまうのだが、長年ボロを出さずにきた長助と春が、シドッチだからといって洗礼を受けたあげくに殉教するだろうか。それは、あまりにもメロドラマに過ぎる、と私は思う。

むしろ、30余年の間、牢で働き、ボロを出さずに来た精神力と注意深さに恐れ入る。と、同時に多少のボロはこの夫婦の有能さによって不問にされてきたのだろうとも推測できる。だからこそ、自首してきたときに、役人たちは「驚愕した」のだろう。わざわざなぜ、この時期に「自首」してしまうのだろうか、と。多少のことであれば、見逃してやったであろうに、と。

むしろ、メロドラマは、夫婦の愛の方に見出したい。

長助と春は、非人の子同士、婚姻させられ、役割によって成立した夫婦であったが、そこにはある種の仲間意識が芽生えた、と。その仲間意識は、キリスト教に帰依したことをお互いに隠しとおすことで強まった、と。それは、現代に特徴的なパッと燃え上がるような軽薄な愛などではなく、それこそ「比翼連理」ともいうべきものであった、と。

どちらかが、体に異変を訴えた。もう長くないかもしれない。それでは、と、2人でわざわざ「自首」して出た、という話は成り立たないだろうか。

3体の遺骨のうち2つが、もし、長助と春のものだったとすれば、それらをわざわざ傍に眠らせることがあるのだろうか。

現代よりも、仏教的な観念が強かった時代において、新井白石ですら尊敬したシドッチはともかく、長助と春の遺骨を、その傍に埋葬するというのは、それこそメロドラマであるような気がする。二人は、それでも罪人であるし、別々の牢に入れられていたのであるから。

幕府が、30余年にわたる彼等夫婦の功績ゆえ、一緒に眠ることを許したというメロドラマなのか。それとも、キリスト教に帰依した三人を仏教的な感覚で埋葬することで死してなお屈辱を与えようとしたのか、その辺はよくわからないが、人間と云うのは、理屈では割り切れぬ行いをするものだな、と感じた。

晩秋のある夕暮、私は思いたって、キアラこと岡本三右衛門とシドッティが死に、長助、はるも死んだこの切支丹牢屋敷の跡をたずねようと思った。地下鉄の茗荷谷駅から拓大に向う細い坂道をおりた頃は、先ほどまでまだうす明るかった空がとっぷり暮れて、両側の店々の灯が夕靄のなかでうるみ、私は二、三度、道に迷っては道ゆく人にたずねてまた別の坂道をのぼった。このあたり一帯は既に切支丹屋敷の敷地だったのだが、山屋敷と当時呼ばれた通り、今でも坂の多い場所だった。

私もふと、この切支丹屋敷跡を訪ねてみたいと切に思った。

*ちなみにバナーのクロドヴェオ・タシナリ氏の本は、長らく日本で神父をされていた氏の著作で、純然たる研究書ではないが、前半の「研究」は非常に面白い。ただ、新しいものにみえても、1941年(戦中)の刊行なので、内容に違和感はあると思われます。ただ、こういう歴史散策は、面白いと思うなあ。

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