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長い小説に挫折する ~カミュ『ペスト』~ 1

ずっと前からキチンと読んでみたいと思っていたアルベール・カミュの『ペスト』だが、思えば何度もチャレンジしては跳ね返されて来た作品の一つである。

長い作品を読むのは、作者の汗に比して、こちらも同等以上の汗をかかねばならず、その労苦を予見するだけで、読もうという気がなくなってしまうことはしばしばある。『ペスト』がそうだとまでは言わないが、なんとなく読み始めてしまうと途中で失速し、棄権してしまうことが多く、キチンと事前にコースを下見しておかないと完遂できない本だという思いはあった。

そういうわけで、私も実は今までに、ちゃんと『ペスト』を読んだ経験はない。けれども、誰かの書評や、誰かの感想で、何となく内容を理解したつもりになっている。そして、本自体も古本新本合わせて三冊くらいなぜか持っていて(持っているのを忘れて買い足した)、ざっと一瞥する程度だが全体に目を走らせるくらいはしているのだ。

「あれだろ? リウーという医師がアルジェリアのフランス植民地の都市オランでおきたペスト発生にまつわる人々のあれやこれやを冷徹なほどに客観的な筆致で記録した話だろ? そうですね、ここ数年のコロナ禍騒動で起きた一連のドタバタ劇を誰かがカミュのように記録しておくことも必要ですよね!」という知ったかぶりは、最初と最後の部分を読み、だいたいこんな枠で造ってあんだろ、というセコい理解によってつくられたものである。

48歳の交友関係では、現実に『ペスト』の細かな中身を話し合ったりする機会はほとんどないので、「いやー、コロナ禍なんでデフォーの『ペスト』とカミュの『ペスト』を読み比べちゃいましたよぉ~」などとしたり顔で述べてくる同僚も皆無なので、セコい理解でも日常生活では支障がなく生きていられる。

そうした幸せな環境に囲まれていると、残り少ない人生の時間を『ペスト』に使ってよいものか判断しかねるのである(ぐずぐず考えている暇あったらちゃんと読めよ、と思わなくもないが)。にもかかわらず、こんな平日の月曜の深夜という週末までの道のりを考えると嫌になるそんな時間に、ふとカミュ『ペスト』が目に入ってしまう。

ほら、ここで読まないと一生読まないぞ!と誰かが勧誘しているかのようである。確かに、今、家にある平成3年の四十四刷版は、ずいぶんと文字が小さくてチカチカする。これぞ老眼、ということで、このタイミングを逃したら読まないまま人生終わってしまうかも。じゃあ、読んでみるか、と重い腰を上げた。

小さい!老眼には辛い!(わざとブレさせています)

長編を読む準備体操をする

というわけで、いきなり作品を読み始める前に、外堀と内堀を埋めておきたい。徳川家康が大坂夏の陣を攻略する前に行っていた仕置きのように、理解の幅を狭めていくのが私の趣味でもある。

外堀の埋伏とは、アルベール・カミュという作家に関する知識、『ペスト』執筆の意図や刊行に至る経緯、刊行後の評価やその後の解釈などを知ることだが、読書感想文を書くために、アレコレ調べるのは、時間の都合で出来ない。

一方、内堀の埋伏とは、『ペスト』の設計図を理解することだ。

当たってくだける読み方は若い時ならいいと思うが、オジサンになると、思考のスキーマが固定してしまって、当たってくだけようとすると見たいところしか見られずに終わってしまう。なのでできるだけ客観的に把握したいと思うので、小説をプラモデルとしたら、その設計図を理解しようとするのである。

私の場合、読み止められる場所を探す。『ペスト』は、全体が5章に分けられており、2章と4章が長く、3章は極端に短い。この章構成を眺めながら、休憩できる場所を探す。オジサンは短期記憶のメモリーが少なく、そのわりにあれやこれやと日常で依頼されることが多い。すると、朝途中まで読んでも、夜内容を忘れて面倒になって、読むのをやめてしまうということがある。したがって、一日で進むペースをつかむために、全体を記憶できそうな場所を想定するのだ。とりあえず『ペスト』は一日一章で良さそうだ。

1章中、2章長、3章短、4章長、5章中

ここで注記しなければならないのは、私のこうした本の扱いについてである。つまり、ページの端を折ったり、付箋を付けて糊を付着させたり、という書籍形態へのダメージについて、私は本は道具との立場から、あまり気にしないという選択肢をとっている。

もちろん、鑑賞物として本を保管しているものもある。けれども、文庫に関しては、やはり内容が第一義ということで、その内容理解についてはやれることをやるという立場。内容は、結局素材を器に盛って際立たせるものであるから、器についての理解を深めるためには、物理的にアレコレやるという作業は必要だと思う。

デジタルデータにはデジタルデータの良さがあって、kindleも多いに使用している私ではあるが、こうした物理的作業をしていくことで、理解が深まることのフィジカル面での利点はやはり捨てがたい。

第1章を記録する

長い小説を読むときは、もう、メモを取らないと覚えてられない。ある程度の枠がメモによって浮き彫りになったあと、その枠の中にある絵を眺めなくては、一向に話が入ってこない。なので、第1章、メモをつくってみた。

『ペスト』第1章、話の流れのメモ

おおよそ、5つのパートに分かれ、①ではオランという街についての説明、②では医師リウーが遭遇した事件が描かれ、③ではもう一人の証言者である滞在者ジャン・タルーの手記が部分的に示され、④ではペストとはやや流れを異にするコタールという人物の自殺未遂と、その世話をするジョセフ・グランという官吏との物語が挿入される。⑤では、この流行り病が「ペスト」かどうかの会議が示され、コタールのエピソードが挿入されたのち、知事が「ペスト」を宣言することを要請する文書が届く。

感想

第1章は導入部だ。官吏ジョセフ・グランのアパートにいる独身者コタールの自殺未遂と、その世話や聞き取りに奔走する医師リウーの物語が、複線的に挿入されるところだけが、複雑かつ暗示的で、ペスト蔓延に関する物語は簡潔で明瞭だ。しかし、それを相対化するような証言を、外部から来て滞在しているジャン・タルーの手記を引用することで、提示している。いずれにしても、原因不明の熱病は、いやがおうにも、「ペスト」認定されることとなったのである。

個人的にはコタールの自殺未遂を検分する警官とリウーの会話の中で、「天気のせいですな、それだけです」と原因を性急に断定しようとする警官の言葉が、『異邦人』との照応関係がありそうで、面白いなと思った。

また、会議上でリウーとリシャールが議論する場面。

「ほんとうのところ、君の考えをいってくれたまえ。君はこれがペストだと、はっきり確信をもってるんですか」
「そいつは問題の設定が間違ってますよ。これは語彙の問題じゃないんです。時間の問題です。」
「君の考えは」と、知事が言った。「つまり、たといこれがペストでなくても、ペストの際に指定される予防措置をやはり適用すべきだ、というわけですね」
「どうしても私の考えを、とおっしゃるんでしたら、いかにもそれが私の考えです」
医者たちは相談し合い、リシャールが最後にこういった
「つまりわれわれは、この病があたかもペストであるかのごとくふるまうという責任を負わねばならぬわけです」
                            (pp.63-64)

導入部としての第1章では、ペスト認定のドタバタが、あたかも我々を襲った事態の写し絵のように見えた。当人たちが真剣であればあるほど、そこには、ある種の滑稽さが表現される。リウーが正しく、リシャールが誤っているという断定は、その未来を知る私たちには容易だが、おそらくはリシャールの方が私たちに近しい存在である。

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