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村上春樹『1973年のピンボール』

私にはさほど書くべきことがない。際立った体験もないし、特殊な技能も持ち合わせていない。だから、エンターテインメントを提供することも、必須の知識を贈与することもできない。

そんなことを1995年の冬には考えていたように思う。

もちろん、書くべきことがないところから書くことが始まる、という発想があることは知っていたので絶望はしなかったものの、しかし、それで何か面白い作品を書くことができるのかどうか、ということについては懐疑的であった。

そんな折、『1973年のピンボール』という作品に出会った。

これはピンボールについての小説である。

この言葉が、目くらましであろうと、本当のことであろうと、何か自分にとって親しみのあるものについて、言葉を連ねることができる、ということを知った。

「殆んど誰とも友だちになんかなれないってこと?」と209。
「多分ね。」と僕。「殆んど誰とも友だちになんかなれない」
 それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。

三行目以降の稚気はともかく、友だちの不可能性について初めて、この小説を読んで考えるようになった。

「親友」というものは、求めれば求めるほど、遠ざかっていくものである。

1995年冬、私の回りには、2人の同級生がおり、深い友情を育んでいた。私は2浪で彼らよりも年上だった。もう一人は1浪して大学入学、もう一人は現役での入学だった。別に気後れする必要などなかったのだが、私自身が気にしていたのだろう、彼らの友情に踏み込むことはしなかった。

しかし、彼らは、ある困難に遭遇していた。1浪の彼をMとし、現役の彼をNとしよう。MもNも、地方から出てきて一人暮らしをしていた。MはNのことを親友と見なし、ほぼ毎日彼の家へ遊びに行っていた。遊びというよりは、色々なことを議論したがっているように見えた。Mは高校では男子が少ない学校に行っていたと述べており、大学で会った年の近いNに親近感を感じていたのだろう。

けれども、Nは大学へ勉強することを目的に来ていた。独り静かに読書をしたい、ということもあっただろう。最初の内は、Mが家に来ることも、初めての一人暮らしで心細かっただろうから、歓迎していた節もある。しかし、それが2ヶ月、3ヶ月ともなると、いささかうんざりしてきたのではなかったか。

いずれにしても、MとNの間に亀裂が入り始めた。

私は、Mに呼ばれることもあれば、Nに呼ばれることもあって、Nの家に第三者として参加した。Mは、Nの誤解を解くための調整役として。Nは、Mの過干渉を中和するための緩衝剤として。いずれにしても、私自身が求められていたわけではないし、呼ばれて色々な話をするものの、私の悩み自体に対する解答は得られなかった。

私はだから、MとNとのやりとりを観察するだけにとどまった。今となっては、NがMをうざったく思う気持ちを理解し、過干渉にならぬようMを説得してやればよかったなと思うものの、当時は、Mの寂しさも理解できた。Mはただ親友が欲しかっただけなのだ。

『1973年のピンボール』は「僕」と「鼠」の物語だ。特に、大学を中退した「鼠」の絶望について、「僕」が考察する物語でもある。

「鼠」の絶望は、年から類推すると、全共闘運動の挫折を思い起こさせる。ただ、そう読んでしまうと、結局歴史のドキュメントに小説を落とし込んでしまうだけで気が引ける。だから「鼠」の中退の理由や世界との関係についてはひとまず捨象して考えてみよう。「鼠」は何に絶望しているのか。

「僕」については、1995年冬の私は、素朴に共感していた。例えば、こんな記述。

電話が鳴る、そしてこう思う。誰かが誰かに向けて何かを語ろうとしているのだ、と。僕自身に電話がかかってきたことは殆んどなかった。僕に向かって何かを語ろうとする人間なんてもう誰ひとりいなかったし、少なくとも僕が語ってほしいと思っていることを誰ひとり語ってはくれなかった。
多かれ少なかれ、誰もが自分のシステムに従って生き始めていた。それが僕のと違いすぎると腹が立つし、似すぎていると悲しくなった。

でも、今は、この共感、傲慢だったと反省する。聴くチャンネルを変えることができれば、もしかしたら私に対する声を聞き取れたのかもしれない。

私はこの『1973年のピンボール』は友情をめぐる物語だと思っている。

 何処まで行けば僕は僕自身の場所をみつけることができるのか?例えば何処だ?複座の雷撃機というのが僕が長い時間かけて思いついた唯一の場所だった。でもそれは馬鹿げていた。だいいち雷撃機なんて三十年も昔に時代遅れになっちまった代物じゃないか。

なんだこれは、『スカイ・クロラ』か。

いや違う。「複座」という設定が、友情についての探究の途上を示唆しているのだと読める。「僕」の家に押し掛けてくる双子は、完全な意思疎通を示すものであり、友情そのものを除外する存在して提起されているのではないか。

チャーリー・パーカーの「ジャスト・フレンズ」も、満員電車の中で前に坐った男に対する架空の挨拶も、おそらくはこの小説が友情をめぐる小説であるということを呟いている。けれども、「ピンボール」という独り相撲を示唆する言葉が、テーマとしての友情を敢えて隠している。

「僕」が語りながら、時折「鼠」の内面に入り込む。

「僕」はピンボールにのめり込み、「鼠」は内面について考えをめぐらす。

「僕」と「鼠」は別々に行動している。交差はしない。ジェイズ・バーで時々落ち合うが、何か意見を交換したりすることはない。

「僕」はピンボールとも離れ、双子とも離れる。「鼠」も、この街を離れ、ジェイとも離れる。

ただ、それだけの話である。

「鼠」の絶望が何に由来し、何で、どう考えたから街を出たのか、ということは示されないし、「僕」も同様だ。

「鼠」のことを、私は、何とも思わないが、MとNが諍いをしていた時、私は「鼠」のように、自分のことしか考えることができなかった、ということを今でも悔しく思う。

Nは一方的にMの接近を気持ち悪がり、MはNに拒否されたという事実の理由がわからない。Mは、その理由を執拗に問い、Nはそれに答えることができない。なぜなら、NはMを決定的に傷つけたくなかったし、できることなら、適切な距離において友たち付き合いを続けたいとさえ思っていたから。

Mが接近の拒否について問いかけることを執拗に行ってなければ、友情は持続していただろう。

しかし、この友情の破綻、誰に問題があったのか。

私は、2人には問題がなかった、と考える。

敢えて言えば、親友の実在を信じたMの純粋な気持ちが、友情関係の成立を妨げたということになるのではないか。

私は、レフェリーもせず、ただ観客として振る舞ってしまった。

たぶん、一番悪かったのは、私である。

彼らは、私をレフェリーに任じてしまった。それだけが彼らの失敗だといえるのかもしれない。



『1973年のピンボール』は、友情に関する考察が随所に見られる小説である。

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