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「智子、そして昭和 (3)」/独立と結婚生活のあれこれ、智子の過労入院

 

(3)
 結婚したとはいっても生活は相変わらず厳しく仕事に精を出さなければならないのは変わらない。特に独立した手前、早く仕事をもらって仕上げた上で稼がねば干上がるのは自明の理で、早速注文取りからモノ作りに、と朝に夕に忙しい日々を送らなければならなかった。これまで同様、新司は一旦仕事に集中するとまわりの声などお構いなくまるで聞こえないかのように長時間打ち込んでいるというふうだった。
 智子には最初それがわからなくて、なにか触れがたい“気”を感じていたが、あまり長い時間そうしているのも度を超すと体に良くなかろう、少しは休憩時間も必要だ、それからというもの、長時間休みもせず打ち込んでいるときには無理にでもお茶を持っていくようにした。
「あなた、お茶が入りましたよ、
そんなに根を詰めちゃ、体に毒だわ。無理をすると寿命を縮めることになるわ、それより時々休んで体を大事にして長生きすればいくらでも取り戻せるんだから、ちょっとだけおやすみなさいな、、、、。
戸越で買ってきた大福があるのよ、さあ、食べましょ。」
「、、、?、、、ああ、ありがとう。」
 もちろんそう言って笑顔を見せてくれる時ばかりではなかった。時に職人言葉で、
「うるせえな、ちょっと黙っててくれないか。いまが大事なところなんだよ。」と言われることもしばしばで、そういう時はうっちゃっておくよりしようがなかったが、、、。
 ただ職人の習慣で週に一日は休日であり、暇はないのであるが休みの前日などはゆっくりと過ごすことができた。智子はそういうときはおかずなども趣向を凝らして疲れを癒してもらえるよう準備をした。お酒も用意して二時間ほどは夫婦水入らず、ゆったりとした時を過ごすよう努めた。そんなことをしたことのない新司はこれまでのように外で飲みたい気持ちでいつのまにか、今日は焼き鳥でも食いに行くか、と思い込んでいたりして、ふらっと外に出てみたときなどは、
「あなた、どこへいらっしゃるの?お風呂なら洗面器をもっていかないと、、、。それにお風呂なら私もお供しますけど、、、
でも夕飯の支度もできてるのよ。どっちを先にしますか?」
などと言われ、ふと我に返り笑顔で
「ああ、そうか、、、。本当にそうだったねえ。
お風呂に行こうか。どうだい?」
 夕暮れの中夫婦で風呂に行き、さっぱりと体を洗い流した後、差し向かいで一杯やるのもそれはそれで悪くなかった。これまでは飲むと言えば居酒屋で一人で黙ってゆっくりと思う存分にいろんな想像をしながら過ごしたものだ。それは哀しくなるほど昔の、母と妹との仕合せだったころのことだったり、ラバウルで懸命に働いた、訓練や自活のための農作業の日々、そして共に語り合った矢沢のことだったり、、、、。どれを思っても心地よい。酔いの中に哀しく切ないが懐かしい思いを蘇らせてくれる。そして日本のために働くとは?、自分の仕事をさらに磨きぬいていけばどこまで良いものが作れるんだろうか?自分にその力があるのだろうか?いや、なくたってやらなくちゃならないだろう、どうしても、、、、。そういう想像をしながらの酒は身に沁みるようにうまいものだった。酒のあてなどは何でも良かった、ただ心地よい酔いが心臓から全身へ回りまた心臓に戻ってきて静かに心を癒してくれる。そういう酒の習慣がすっかり変わった。 
 結婚このかた、飲むときはいつも智子がいて、彼女がひとりでにしゃべりだしてにぎやかに笑っている。こちらもつられてつい笑ってしまうのだが、その話が何のことはない話で、この間、用事で親方のところへ行ったときおかみさんが、、、、、それがおかしいったらないのよ、あなたわかるでしょ、親方とおかみさん、、、、それが適度な間をおいてえんえんと続く感じだった。なんということはないのだがそんな智子の姿を見ているだけで楽しかった。こんな経験はついぞこれまでなかった。
 そして肴のうまさも際立っている。煮物なども出汁をうまくとるのだろう、うまみが沁みていて、それがまた酒によく合う。焼きものなどは炭火の加減なのか、魚の身など柔らかくふっくらとして馨しいばかりの香ばしさについつい酒が進んでしまう。そして酔いが回ってくると、智子のしぐさが妙に艶めいてみえてくるのを何とはなしに見つめている自分に気づき、お前は何をだらしなく見ているんだ、鼻の下が伸びているんじゃないか、と戒めてみないではいられなかった。照れ隠しに智子に酒を薦めると、そんなに飲めないんだが、とことわって少しづつ口にして、ほんのりと火照った顔で笑いながら取り留めない話をするのを聞いていると、またなにかしらこれまでにない心地よい酔いの中で智子を眺めている自分に気づくありさまだった。
 確かに智子は美しかった。結婚して髪を短くしたのだが、それがしもぶくれの頬を際立たせ、真っ白な肌の美しさが強調されるように現れて見えた。そして透き通るような白いうなじが酒が進んで少しづつほの紅くなってくる。誰が見てもとても三十五には見えない。体のどこをとっても水がはじけるような張りのある若さを持っている。
 全体に肉付きが良いのだが姿勢が良いため意外にすらっとして見え、またそれがかえって女性らしい優しさと健康さを感じさせた。白い首から肩へかかる潤いを帯びたなめらかな線、さらに肩から腕、肘へときれいに抜ける線の先にあるふっくらとした白く柔らかな手。そして小さめだが張りのあるふくよかな胸、適度にしまったくびれから豊かで少し重厚感のある臀部、もっちりと弾力のある程よい太ももは肉と脂肪のきれいなバランスを保って形のいい膝へと伸び、引き締まったふくらはぎから絞り込んでいくような足首の線など、本来艶めかしさを感じさせても良いのに立ち居振る舞いがすっきりしているため普段はちっともそんな感じはしない。そんな爽やかな清涼感さえ漂う智子が、こうやってゆっくりと酒を共にして少しづつ体ごとほの紅くなって酔いが回ってきたとき、体の動きが滑らかにしなを作ってどこに隠れていたのだろうという艶めかしさを表す。ほとんどこれまでお酒を飲んだことはない、と言うので自分でもそんな姿をしていることに気付いていないのだろう。そんな自然な姿を見ているとまた微笑ましくなってくる。
 新司も酔いが回って、
「おい、よくもそんなに話すことがあるねえ。
話して笑っている智子もいいけど、少し黙ってみてくれないか。
――――うん、黙っている智子もいいよ。」
「あら、あなた、あたしを口説こうとしてもだめよ。これ以上何もないわよ。こんなおばさんでおまけにとんまでおかめなんだから、、、、。」
「智子は、ときどき吃驚するようなことを言うねえ。
そうか、女房を口説いていたか、、、。」
「そうよ、女房を口説いてどうするの、あなたって、不思議な人ねえ。」
「本当だ、、、。」
そんなことを言いながらまた智子を眺めている。ああ、四十にもなろうとする男がこんなにもふやけてしまってどうするんだ、全くだらしがない、と戒めてもどうにもこうにもならなかった。

 ある日、智子が今日はちょっと出かけて来たいのだが、とことわって外出した。これまでも時々そうしたことがあった。朝出かけて帰ってくるのは昼過ぎで、その後慌てるようにして仕事を手伝ってくれたり、家事を急いで進めるので当初はさほど気にならなかったのだが、月に一度くらいだろうか、そのような外出をする。今回はなぜか少し気になった。
 そうして忙しい日々を送りながら二月になって新司としては目一杯仕込んだ仕事の仕上げと納品にせわしなくなってきた夜、また、明日少し出かけて来ていいだろうか、忙しいところ本当に申し訳ありません、と言った。心に余裕がなかったためだろう、また何か隠し事をしているようにも感じたが、そんな小さいことを咎めるのも気が引け、
「ああ、、、、」
と言って、あとの言葉を飲み込んだ。
 智子が外出した後、何か自分でも割り切れないもやっとした気持ちに気付いたが、迫られていた仕事を済ますことだ、と自分に言い聞かせ集中して仕上げを済ませ、昨日までの分を合わせて昼前に納品に向かい、お客さんに収め家路についたのは夕方だった。仕事に集中し気を紛らせていたがもやっとした気持ちは焦りに似た嫌な気持ちになっていった。後で気付いたがそれは嫉妬だったと思う。
 なぜ智子は説明もせず隠し事をしているような態度をとるのだろう。説明したらいいじゃないか、、、、なぜ?、、、でも、三十五まで独身でいたのだ、俺の知らないこともたくさんあるのが当たり前だ、でもなぜ、、、、。もしや、、、。むしゃくしゃした気分を抑えられず、ついふらっと居酒屋に入り、久しぶりに一人酒をやり始めた。最初はご無沙汰していたせいか、はたまた今日までの疲れもあったせいか、人込みの活気の中で快調に酒が進んだが、ふと箸を休めてみるとやはり智子のことが頭に浮かぶ。あれだけの器量だ、好きな男もいたに違いない、向こうから言い寄ってきた男もそれなりにいたはずだろう。そんなときはどうしたのだろう、多少の付き合いもあったのではないか、初婚だと言ったが、結婚を約束した人がいたのではないか、次から次へとあの嫌な気分が押し寄せてくる。それを繰り返しているうちに久しぶりにしたたかに酔い,つぶれそうになりながら家に帰ったのは明け方に近かった。
「どうしたの、あなた、こんなに遅くまでどこでお飲みになっていたの?」
 新司は玄関に入るなり、どてっとへたり込んでしまった。
「もう、あらあらこんなところを擦りむいているわ、どこかで転んだの?大変、さあ、私につかまって。」
 ひと先ず傷の手当てをし、ようやくの事で寝床まで運んだはいいが、新司はそのまま鼾をかいて寝込んでしまった。
 智子は、その日妹の良枝と長谷屋の嫁の芙美枝が午前中に訪ねてくることになっていたので、七時には支度をし始めたが十時になっても新司は起きてきそうになかった。

 良枝と芙美枝が訪ねてきた。
「姉さん、お久しぶり。義兄さんは?」
「お久しぶりです。智子さん、今日はよろしくお願いします。」
智子が、
「うちの人、今日は珍しく二日酔いで寝ているの。ご免なさいね。相当飲んだらしいの、息はしているから大丈夫だと思うんだけど、まだ起きそうにないの。」
「相変わらず姉さんはのん気ねえ。息はしているから大丈夫って。」
「本当に大丈夫よ、鼾は頻繁にするし、顔色も悪くないから、、、、
 だから気にしないで座って頂戴、でも少し静かに話して頂戴ね。
さあ、お茶でもどうぞ」
 それからは女三人のかしましい会話が続いたが、しばらくして思いついたように良枝が、
「ねえ、姉さん、そう言えばお大師さんには義兄さんと行ったの?」
「、、、う~うん。」
「え?義兄さんに断られたの?」
「そうじゃないわよ」
「そうよねえ、、、、じゃあどうして一緒に行かないのよ、どうしたの?」
芙美枝が、
「なんですか?お大師さんって?」
「実はね、姉さん、戦時中から、、、、、」
「よしてよ、良枝ちゃん!」
「あら、もういいじゃない、姉さん。実は姉さんね、戦時中から新司さんが戦争から無事帰ってくるようにって、毎月、毎月お大師さんに欠かさず参っていたのよ。」
「え、そうなんですか?」
「そうなのよ、ずーっと、新司さんのことが好きだったのよ。あれは戦争の始まる前からだわよねえ、姉さん。」
「シーっ!、静かに!」
芙美枝が感心したように、
「素敵だわ、智子さん。そんな前から新司さんのことを思っていたんですか?ええー?、
あら、もう、やだ、ええ!本当ですか?智子さん、可愛いい!」
「芙美枝さん、本当に、シーっ!、だめよ、静かに、お願いだから、、、、うちの人に聴こえちゃうじゃない。恥ずかしいわ、、、」
「姉さん、なにを恥ずかしがってるのよ。えっ、ていうことは姉さん、まだお大師参りのことを義兄さんに話してないの?姉さん、おかしい、それはおかしいわよ。早く言わなきゃだめよ。隠していたってしょうがないじゃない。早く話しなさいよ。」
「別に隠しているわけじゃないわよ。ただちょっと恥ずかしいだけよ。なんか言い出しにくいのよ。だってそうでしょ、うちの人にしてみれば、、、。
だってそうじゃない?
だって、うちの人にとって見ればそんな、、、、押しつけがましいことかもしれないじゃない?そういうことかもしれないでしょ?
―――だから、話しにくいのよ、、、、。ね、そうでしょ。
でも、実はね、昨日も一人で行ったんだけど、なにも疚しいことしてるわけじゃないんだけど、なんだか、少しこの辺が胸苦しくなってくるの、やんなっちゃう。」
「智子さん、それはいけないわ。わたし、新司さんを起こしてくる。ちゃんとお伝えしないとだめよ。」
「芙美枝さん、だめ、それだけは止めて。お願い、一生のお願い、、、、、。
もう少し立てば自然と話せると思うの。だからね、ね、お願い。」
「姉さん、本当、そういうところ、昔っから、、、、。いつまでも鈍でのろまなのよねえ、本当、しっかりなさいよ、結婚して半年にもなって、そんなことじゃ、先が思いやられるわ~。ねえ、芙美枝さん。」
「本当、そう思います、わたし、今度来る時までに新司さんにお話ししてなかったら、親方からお話ししてもらうようにします。本当にそうしますから、、、、」
「わかったわよ、わかりました。ね、だからもうこの話はよしましょ、、、、、、、」

 寝床で新司は思った。ああ、なんと申し訳ないことをしたんだろう。本当にすまないことをした、智子を疑うようなことまでした自分の心を責めた。
素直に謝ろう、そして智子と一緒にお大師さんに行こう、、、、、、。
 良枝と芙美枝が帰った後、おもむろに起きた新司は、
「あら、あなた、ようやく目を覚ましたの。」
と言う智子の前に座った。
「大きな声でにぎやかな“会議”だったねえ。
――――――今度から一緒に行かせてくれないか。お大師さん。」
「?、、、、、あなた、聞いてらしたの?あら、いやだ。」
「智子、済まなかったねえ。僕は忙しさにかまけて智子の気持ちに気付かなかった。それだけでなく君を疑うようなこともしてしまった。
――――それが昨日の酒の顛末さ、、、、、、、。
本当に申し訳ない。勘弁してほしい。」
 新司は二日酔いのやつれた姿で深々と首部を垂れた。
「、、、、、、。あなた、人が悪いわ、聞いてらしたなら、そう言ってくれないと、、、、。
――――鼻の奥が洪水になってくぐもってきちゃうじゃない。もう、、、、。」
 智子は、実際鼻にくぐもったような声で、
「あなたにそんなに言われると、
かえってあたし、胸苦しくなってきちゃうわ、、、、。
だって、確かに毎月お大師さんにお参りに行ってはいたんだけど、、、、、、、
あの頃、戦争で一番物がないときで、父さんが病気になって、良枝ちゃんと二人で本当に苦労して食べるものにも困っていたから、“神様、家族を何とかしてください”ってお祈りもしてたのよ、、、、。」
「そうか、、、、。
――――智子は苦労してたんだねえ、
僕がもっと早く、智子の気持ちに気付いていたら良かったねえ、、、、。」
智子は一層鼻にくぐもった声で、
「あなた、そんな、、、、そんなこと言わないで、、、、、」
 智子の大きな目が泪で潤いを帯びて、光の加減か、キラキラと光って見えた。
と、
「おい、なんか臭くないかい?」
「あら、あなたに酔い覚ましのお付けをつくってた!」
 智子は転びそうになりながら台所に駆けていった。

 そしてまた忙しい日々が始まった。職人の女将である女房の働きというものは当時、半端なものではなかった。家事だけでなく、お客様へのあいさつから注文の確認、納品に集金作業、部品や道具の管理手伝い等々、特に新司の仕事のやりようは並みの数倍はこなすと言われ、その仕事の質の高さと相まって、そういう生活を知らない智子には毎日が必死の連続だったに違いない。ただその頃には珍しく新司は炊事洗濯などを良く手伝った。それも兵役中司令官従兵をやっていたので手慣れたもので智子が気付いたときには食器洗いや洗濯、掃除が出来ていたということがしばしばあった。そういうことを感じるだけに智子は逆に頑張らねばという思いが強すぎるくらいになっていったのかもしれない。
 智子はこれまで銀行勤めをしていたとき、独学で簿記の勉強をしていた。そのせいで家業の帳簿付けをし始めていた。やり始めるうちに商売としてあるいは生活としてどう立ち行かせていけばよいか、を自分なりにひも解いていきつつあった。それは新司にとっても有難い指針を与えてくれることになった。
「わたし、銀行につとめていたでしょ、その時に簿記を勉強していたことがあったのよ、帳簿をつけさせてもらっていいかしら?」
「それはいいかしらもなにもこんな有難いことはないよ。よろしくお願いするよ。」
 ある日、新司が智子が帳簿付けしている帳面を何気なく覗き込んだ時、少し照れたふうだったが、その意味を説き聞かせてくれた。新司も兵役中に師団司令部にいた関係で帳簿付けの手伝いをしていたことがあり、重ねて説明を受けるうちに智子の言う会計的意味、経理的意味がある程度理解できた。しばらくたってからではあるが、智子から教えてもらううちに、家業をやっていくということ、そのお金を通しての現実の意味が腹に落ちるように分かっていった。それは智子との結婚の思わぬ果実と言って良かった。
 それはさておき新司はそういうストイックな生活をしばらくならともかく、智子はそのうち音を上げることになるのではないか、それもまたやむを得ない、その時によく話をして少しづつペースをつかんでやってもらえればよい、と高をくくっていた。それが秋から寒い冬となり正月を過ぎ、節分になっても桜の季節になっても相変わらず音を上げず続いているので意外な感じを受けてもいた。帳簿会計という性に合う仕事を受け持っていたせいで精神的な張り合いがあったせいもあるかもしれない。
 しかし、四月のある日、朝起きてから少し元気がないなと思い、
「智子、だいぶ忙しく続けてきたけれど体のほうは具合悪いとこはないかい?大丈夫かい?」
「ええ、少し疲れてはいるけど疲れるのは当たり前でしょ。大丈夫よ。」
「ちょっと待て、少し顔が赤いな。おでこをこっちへ貸してごらん。
、、、、、、あ、やっぱり熱があるよ。」
体温計で測ってみると三十九度を指していた。改めてわかったためか、本人も気づいたようにその場にしゃがみ込み倒れてしまった。
 すぐに近所の医者に診てもらったが、高熱とわかってそれまで無理に張っていた気が緩んだせいからか、完全にダウンしてしまったようだった。おまけにおなかを通してしまい、吐き気で食べ物も受け付けることができず、熱は四十度になろうとしていた。
「注射を打っておいたからしばらくは大丈夫だが、うちでは点滴ができない、大きい病院を紹介するからそちらに連れて行ってくれ。二、三日はそちらに入院してもらわなければならないだろう。十中八九はそれで大丈夫と思う。ただとにかく早く連れて行かなければならない。」
ということだった。
 タクシーを呼んで紹介してくれた目黒の大きな病院に駆け込んだところ幸い病室があり、結局一週間の入院療養が必要と言われた。二、三日は点滴を受け、ずっと寝こんでいたが、その後少しづつ顔色が回復し、重湯から始めた食事が粥になり、固形分になった翌日に退院することができた。
なんとか回復してくれたのでよかったが、退院の時、新司より五、六歳は上と見られるベテランの医師から、
「少し疲れがたまっていたのと我慢したのが、病気を重くしたと思う。本人は少し前から気付いていたようだ。ご主人、もう少し奥さんのことを見ておいてやらにゃ、だめだぜ。君は職人だろう?職人にはそういうやつが多いんだ。結構危ないところだった、きっと今後は気を付けるんだぜ、奥さんのことをもう少し気にしてやれ。」
と諭されたのには反省させられた。つい仕事、仕事とせかされるように過ごすことが習い性のようになっているのと独立した手前、焦るような思いとがないまぜになって、いつの間にかアクセルをふかせ続けることにつながってしまった。
「すまなかった。医者の先生に言われたよ。もっと智子のことを気を付けて見ててやらなければならなかった。今度のことには本当に反省した。
――――でも何とか退院できてよかった。まだ十分ではないから、少しづつ治して体力を回復させていこう。」
「いいえ、私ももっと早くにお医者さまに診てもらえばよかったの。あなたにそんな心配をさせてすみません。」
「いや、智子は少しそうやって気張りすぎるところがあるよ。もう少し手を抜いて気楽にやっていこうよ。二人になってここまでやってきて改めて振り返ってみたんだけど、お金のことでは思った以上だった。やっぱり僕も少し張切りすぎたかもしれない。
家事だってこれまで以上に僕の方でやるから。ね、そうしよう。」

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