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「家庭の運営という概念 その25」/介護について、そして死について、重い課題です。

最近になって、母の介護が本格化してきました。

母は86歳、耳が70歳ころから遠くなり、最近では耳元で大きな声で伝えないと聞こえないくらいになっています。
また、数年前、脊髄の圧迫骨折をしてから、腰が相当曲がり歩くのに杖が必要になっています。
もちろん、車いす生活ではなく、買い物をして自分で食事をとることはなんとかできていますが、おそらく認知症が入ってきています。

若い頃から、”我”が強く、人に負けまいとする気持ちが強いため、自分が老いて来たのについていけていないというところがあります。
また、見ていると口には出しませんが、死を意識しているようになってきていると思います。

死を意識しているというのは、覚悟が決まってきたというのではないと私には思えます。

私も既に還暦になりましたが、若い頃は年を取れば死に対する覚悟が固まってくるものとの思い込みがありました。
しかし、それは全くの思い違いかもしれません。
母は、やはり死を恐れているのだと思います。
それゆえ、出てくる”我”というものが86歳にしてより強く出て来ているように思います。

考えてみれば、多くの哲学、宗教書が語るように、死の覚悟などできるはずもないと言った方が良いのでしょう。
私にしたって、還暦に至っても死の恐怖を少しでも払拭することなどできそうにありません。
本ブログの他のコラムで取り上げたように、あの偉大な信仰を持った親鸞聖人でさえ、死の前にうろたえを露わにしているのです。
その様子は、倉田百三が見事に「出家とその弟子」で表現しているところです。

人間に、信仰が必要である所以だと思います。

しかし、いまさら認知症の母に信仰を持たせることなどできはしないでしょう。
もちろん、信仰を持つ人が、少しでも死の覚悟が持てているとは思いません。それは親鸞が証明するところです。

そういう難しい課題がなお存在するということは言えるか、と思いますが、母の場合、私にとってこれほど具体的ものはないため、やらなければならない実務に忙殺されながら、母の生と死、自分の生と死をそれなりには掘り下げながら生きていかなければならないのだろうと思っています。

取り留めも無く、重い課題を取り上げてしまったかもしれませんが、母の介護に直面すれば、だれしも思うことなのだろうと思い、良し無しごとをぽつりぽつりと述べさせていただきました。

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