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「『振られても、相手のことが好きなら失恋ではない』詩人・谷川俊太郎」/四十年に及ぶ田中美智子さんへの恋を思うとき、谷川俊太郎のこころを全的に肯んずることができる

「振られても、相手のことが好きなら失恋ではない」詩人・谷川俊太郎が考える恋を失うこと、恋することの孤独とは

これは、詩人・谷川俊太郎の最近作中の恋に関する一編を記事にしてくれているものです。
この記事には、恋の”個”を超えた恋の本質が記されています。
そしてそれは私の生涯の恋、今日まで四十年に及ぶ田中美智子さんへの恋ごころをなぐさめて余すところが有りません。
(エッセイ「三十五年越し」及び小説「雨と水玉」に仔細を記してます)

1)「失恋とは恋を失うことではない」

 『失恋とは恋人を失うことかもしれないが、決して恋を失うことではない。』

2)「それだけで僕等はもう幸福」

 『恋する者は自分一人だけで幸福になれるのではないでしょうか。僕等は失恋して悲しむかもしれない。しかし僕等はもともとひとりだったのではなかったか。そして恋することが出来る、それだけで僕等はもう幸福な筈です。』

3)「僕等はそれですべてを失うのではない」

 『恋人を失うことは苦しいことだけれども僕等はそれですべてを失うのではない。僕等は生き、世界は僕等に残されている。そして苦しむ程僕等は生きることを愛するようになる、相手のない恋に堪えている間に、僕等はきっとそれさえも生きているものの特権だと思うようになります。
晴れた空や、若い樹や、いきいきとした街をやはり愛しているのだということに気づくのです。
世界が私を愛してくれる、、、、、』

これら1)~3)は、記事中で谷川俊太郎が述べている抜粋ですが、
私は今、その全てを肯んずることが出来る。

恋は失われず愛となった、、、

美智子さんへの恋は、実らなかったがゆえに生涯の恋となった。

胸の奥には美智子さんへの愛があったが、あの時はその愛に私は気付かなかった。焦がれた恋の背景に隠れていたその愛に気付いていれば人生が変わっていたと思う。
そしてあの一度だけの梅田のデートのとき、三十七年前のあの時に恋は破れた。

確かに私は美智子さんに女神をみて恋していた。その時の私には決して届かぬ女神に恋をした。届かぬ自分への大いなる幻滅に押しつぶされそうになった。

だから恋を失ったとき、その失望ほど大きなものは無かった。それは自分への幻滅以外の何物でもなかった。

しかし、

あの失恋の頃から、

私は唄うことを習慣とするけれど、唄うときはいつも美智子さんを思う。

美しいものを求めて歩き続けた人生だけど、真摯に人生を歩もうとするとき、いつも美智子さんを思う。

美智子さんを思うとき、私は孤独の中に最上の喜びを感じ続けている。

心の中に女神と呼ばれる永遠の愛が生まれたと気付いたのは、十年、二十年もの時を隔ててからだった。






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