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「小説 雨と水玉(仮題)(15)」/美智子さんの近代 ”それからの月日ー1”

(15)それからの月日―1

四月のデートの失敗は忘れることができなかったが、ゼミの方は非常に忙しくしばしそのことを離れることができたのは、美智子にとって幸いだった。
 
ゼミでは、未訳の短編やこれも未訳のモーム作品の評論を訳出するのと背景、位置づけの資料調査を課された。四年生は、卒業までに5回持ち回りでレポート化し、ゼミで報告を行うことになっていた。非常に骨の折れるもので、よそのゼミに比べてボリュームは倍以上は有っただろう。
二回り目のレポート報告を終えた時、女性教授の高坂洋子から、
「モームの作品の特徴は、卑近と言っても良い身近で通俗的な設定の中で、人間性の本質深く切り込む内容の充実にある、ということが田中さんにも少しはわかってきましたか?」
「はい、少しですがわかってきた気がしてきました。」
「そうね、このまま努力を続けていきなさいね。卒業するまでにしっくりとわかるようになると思うわ。
それからこれから夏休みね。就職活動もあると思うけれど、日本語訳でいいからモームの作品を出来るだけたくさん読んでね。その際は、中野好夫訳のものを選んで読んでみてね。」
「はい、わかりました。」
「田中さんが、これから社会や家庭で充実した日々を送るために、人間性についていかに深く理解しているか、ということがきっと大事なものになるから。
あなた、わりと良いスジを持ってると思うのよ、頑張ってね。」
「はい、ありがとうございます。」
高坂先生は本当に厳しい先生なのだが、稚拙でも本人が非常に頑張ったとわかったときには将来に期待する本当の意味で優しい言葉をかけてくれた。美智子は二回目で先生から始めてもらった言葉に素直に嬉しかった。何かまだぼやっとしているけれど、世界が広がったように思えた。
 
美智子にとってこの夏休みは、読書、勉強と就職活動だった。
四年生の一学期でのゼミで志望についての考え方が少し変わってきていた。両親のもとを離れることは考えなかったが、少しでもいいから文学に関わることができる仕事がやはり張り合いがあると思えてきていた。
飛び切り優秀な学生には高坂先生は大阪の出版社などに就職の紹介をしてくれるということを聞いたことがある。
美智子もさぼってきたわけでは無いが、トップ層とはいかなかったので、そこまでは期待できないのだろうし、自分としても出版社などでそこまでやり抜くというところまではまだ自信もなかった。
ただ、文学の世界に関わっていることがやはり楽しいに違いないという気が強くしてきていた。
 
就職担当の則松さんには何度も相談に行った。
こういうところにワケ知りの女性を配しているのが伝統の大学の強みなのだろう。親身になってくれ、美智子には大阪のA書店が良いのではないか、と薦めてくれた。一般読者購買者との関わりもあるが、高等学校や図書館、大学の先生との窓口業務さらには出版社との関わりもあり、その世界に関わる仕事がそれなりにありそうだったし、自分の得意領域というものも構築していける可能性もあるとのことだった。
念のため、高坂教授にも相談すると、
「田中さんの条件からして、私は非常にいい選択だと思う。いいんじゃない。推薦状を書いてあげるわ。頑張って受けてきなさい。」
先生から言われて改めて、自信もついたし、気持ちも固まった。
 
両親にも賛成してもらえ、就職面談に行き、感触も良かったので第二志望は調査だけにして勉強の方を優先していたら一週間後に合格通知が届いた。

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