『フレイザー報告書』こぼれ話(6)

引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。

発言人物一覧

○クリス・エルキンズ……元FLF職員。1974年9月14日の「日本大使館卵投げ未遂事件」の実行役のひとり。
○リチャード・スナイダー……駐韓米国大使。
○ドナルド・ラナード……元米国務省韓国部々長。
○金相根(キム・サンクン)……元在ワシントン韓国大使館参事官。1974年当時は一等書記官。

○ドナルド・M・フレイザー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員長
○エドワード・J・ダーウィンスキー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員

『ワシントン反日デモ事件』を深掘りする(決行篇〈前〉)

 1974年9月14日、反日デモ決行日。

9月14日ー 下院の国際機関に関する小委員会での証言によると、自由リーダーシップ財団 (FLF) が[駐米日本]大使がいつも大使館を出る正午に、ワシントンの日本大使館に卵を投げることを計画している。FLFはまだ[公にはデモの主催者と]知られていない。

『合衆国における韓国中央情報部の活動』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会・付録

 フレイザー:あなたは、この日本大使館を巻き込んだ事件に関与したか、または関与する予定でしたか?
 エルキンズ:約24時間前、噂を通じて何が起こるかを聞いていました。その時点で、私は自分が関与していることを知りませんでした。それが起ころうとしていた朝、それが起ころうとしていたとても早い朝に、ニール・サロネンが私に近づき、何が起こるのか、そして私がそれに関与していることを教えてくれました。

『合衆国における韓国中央情報部の活動』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1976年9月27日)

 だが、サロネンもエルキンズも、一夜明けて状況が一変していたことを知らなかった。一体何が起きたのか?

9月14日ー 12時30分から金鍾泌首相と後宮大使が約45分間、首相公邸で会談(金東祚外相も同席)。首相が直接妥協の意思を示す。
9月14日ー 外務省筋、駐日大使召還など最悪の事態は回避との感触を示す。

朝日新聞記事を基に作成

 ソウル時間で14日昼(ワシントンでは13日深夜)、金鍾泌首相が停滞した話し合いの打開に向けて乗り出して来たのだ。しかも「過去の行きがかりを捨て、ここで和解の空気を作りたい」と、首相自らが妥協の意志を示したのだ。

 強硬だった韓国側が折れたのは何故だろうか?
 韓国政府が13日午後予定していた重大発表を見送ったのがその兆候だったとすれば、リチャード・エリクソン代理駐韓大使と盧信永(ノ・シンヨン)外務次官の会談か、スナイダー駐韓米国新大使の赴任が2日早まったことのいずれかが影響したと思える。(こぼれ話(5)参照)

 『フレイザー報告書』は、

1974年9月初旬、フォード大統領は訪日計画を発表したが、韓国への立ち寄りは含まれていなかった。また、田中首相が 9 月にワシントンを訪問する計画もあった。これらの動きは、韓国政府にとって、アメリカが日本に肩入れすることを意味すると解釈された。これに対して韓国政府は反日デモを命じた。

『フレイザー報告書(和訳版)』43ページ

と、フォード訪韓実現のための反日デモであるかのように記しており、もしエリクソン・盧会談で、そうした〈飴〉と引き換えに、日本との関係を修復するよう米側が圧力をかけたならば、なるほど折れたやもしれないが、おそらくそうではあるまい。なぜなら、金外相は14日の午前中、折れるべきは日本側とばかりに動かなかったし、15日以降も交渉をご破算にしかねないことをやっているからだ(こぼれ話(8)参照)。

 ダーウィンスキー:1974 年に朴夫人が暗殺された事件について具体的にお話ししましょう。これは韓国と日本の間で特別な問題を引き起こしました。 日本と韓国の関係を緩和し、落ち着かせるために、米国はどのような立場または役割を果たしましたか?
 スナイダー:私たちは基本的に中立的な立場を取り、どちらの側にも譲歩するよう圧力をかけませんでしたが、より大きな関係と地域の安全のために、関係を修復し、通常の関係を再開するよう促しました。 私たちはそれを心配していましたが、途中で参加しませんでした。 我々はこれを日韓の問題として受け入れたが、激しい意見の相違が続くことは地域の安全を脅かす可能性があるため、できるだけ早く問題を解決するよう双方に求めました。
 ダーウィンスキー:この米国の立場は韓国政府にとって満足のいくものでしたか?
 スナイダー:私は同僚の一人に相談しました。当時、私は部署にいましたが、実際には移行期でした。彼が言ったように、ノーでした。彼らは私たちが中立的な立場を取るよりも韓国の側に立つことを望んでいたでしょう。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月1日)

 一方の米国も、スナイダーの証言を見るかぎり、日韓二国間で解決するように中立を保っていた。エリクソン公使は代理大使として金外相とたびたび会談を持ち、その際、日本へ圧力を掛けるよう請われていたのかもしれないが、断っていたのだろう。あるいは、スナイダーの証言中に出てくる同僚とはエリクソンのことかもしれない。

 では、スナイダー赴任が早まっただけで、韓国が態度を一変させるものなのか? だが、フィル・ハビブ(8月19日離任)からスナイダー(9月18日着任)へ駐韓大使が交代するまでの空白期間と、反日デモが急速に拡大・収束していった期間が一致するのを、単なる偶然と片付けられない。

 そしてもうひとつ、米国務省からの圧力というのがある(下記年表参照)。ただしこれは、(日付はともかく)単に〈やってますよ〉というアピールだけで、働きかけの中身がさっぱりわからないので、この〈鞭〉にどれだけの効果があったかはわからない。

 理由は判然としないが、ともあれ、日韓間交渉はようやく妥結に向けて動き出した。そんな時に何処であれ反日デモが行われ、ましてや統一教会が主導していると知れれば、日本政府の態度を硬化させ、金首相の面目は丸潰れである。したがって、金首相が交渉に乗り出したワシントン時間14日未明の時点で、KCIAソウル本部からワシントン支局へ、反日デモの中止ないし延期の指令が出されるべきであったが、この後の展開を見ればそうはならなかったようだ。

 ラナード:その頃、日本の田中首相が米国を訪問していました。(安全保障上削除)
 それに基づいて行動したが、民間の韓国人が、デモを行うことになったという合図を受け取ったので私に電話をかけてきた、という事実によって裏付けられました。私は韓国大使館の代理公使に電話し、彼らがデモを計画しているという情報を持っていること、KCIAの職員にそれをやめさせるよう、デモは行わないように、と伝えました。私は、もし理由に対して彼の心に疑いがあるなら、合衆国への公式な来訪者の訪問に関連した最近の議会法案では、私が覚えている限り、そのような訪問を妨害または嫌がらせをしようとするあらゆる試みに対して、5,000ドル程度の罰金と懲役刑が科せられることを指摘しました。私には、彼らが私たちの憲法に反すると私が考える方法で行動していたという事実を超えて、それを注視する何かがありました。しかしいずれにせよ、デモは行われませんでした。彼らはそのメッセージを非常に強く受けとめ、私の行動は別の情報源からもフォローアップされたと私は信じています。

『合衆国における韓国中央情報部の活動』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1976年3月25日)

 安全保障上削除されている部分は、おそらくこぼれ話(1)冒頭でも触れた、「合衆国情報機関からの報告書」の元になった情報であろう。注目したいのは「民間の韓国人」によるタレコミがあったという点である。これは金相根が雇った親朴派在米韓国人の線だろうか、あるいはこの後引用するプレスリリースを見た在米韓国系マスコミ周辺だろうか。

 『フレイザー報告書』によれば、ラナードが韓国大使館に電話を入れたのは13日としている(但しラナードは電話した日時について証言はしていない)が、実際は14日の朝ではないだろうか。というのもこの時、ダン・フェファーマンがデモ決行のプレスリリースを発している(14日午前7時付)からだ。

 『韓国のための正義』は、朴正煕夫人殺害事件の捜査に対する「日本の非情」に抗議するため、本日正午から1時30分までホワイトハウス前に集結する120人以上のデモ参加者による嘆願です。このデモは、論議を呼ぶ韓国の伝道者である文鮮明師によって設立された政治教育グループ、自由リーダーシップ財団によって組織されました。
 FLF会長、ニール・アルバート・サロネンは、デモは「日韓関係で高まる困難に対応し、米国が関与したがらないことに抗議して」昨夜遅くに組織されたと述べました。彼は、このグループがフォード大統領に書簡を送り、朴暗殺未遂を画策したと伝えられ、また韓国政府転覆の中心である、北朝鮮が管理する在日朝鮮人聯合会の活動を制限するべく、米国が日本との影響力を利用して、日本の合意を得るよう促すと述べました。サロネン氏は、「日本人の態度に劇的な変化があきらかとならぬ限り」、日本の[田中]角栄首相が9月21日に此処へ到着した際、FLFは更なる行動を計画していると述べました。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1977年8月3日)

 14日朝と推測するのはラナードの証言中にある、合衆国公認の訪問者に対するヘイト行為への罰則である。田中訪米当日のデモをFLFが匂わせたからこそ、ラナードも法律を持ち出し警告したと考えるのが自然だ。ラナードは複数の情報源から統一教会がデモを計画していることはわかっていたが、いつ実行するかまでは判らなかったのではないだろうか。もしラナードの警告が代理公使に届いたのが13日ならば、担当外のリム・キュイルがデモ隊を止めに行くという事態には至らなかった筈だ。

 プレスリリースを見たであろうラナードは、自身の証言通り韓国大使館に電話を入れた。当日は土曜日で大使館の業務が休みだったのに加え、13時間の時差があるソウルは土曜の夜である。さて、プレスリリースが出された時刻以降の出来事を見ていきたい(太字は朝日新聞記事から独自に追記した部分)。

9月14日ー 21時30分、金鍾泌首相と後宮大使がこの日2回目の会談(約30分)。後宮は会談後、「破局は回避と言えそうだ」と語る。
9月14日ー国務省、主に朴政権へ日本との合意に向け圧力をかけることで、米国が日韓間の和解へ積極的に取り組んでいることを明らかに。【註】
9月14日ー デュポン・サークルで自由リーダーシップ財団主催の反日デモが行われる。デモはその後すぐに中止される。
9月14日ー スナイダー駐韓米大使、ワシントンを発つ。

『合衆国における韓国中央情報部の活動』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会・付録

 【註】朝日新聞に同内容の記事があるが現地13日の話である。ここでは原資料を基づき14日のままにした。

 外務省はここが攻めどきと見て、14日中に話を纏めるよう、後宮大使に二回目の会談を指示し、韓国政府もこれを受けた。会談内容に関し日韓両政府は沈黙を貫いたが、後宮大使のコメントからは、この二回目の会談で特使訪韓に関し大筋はほぼ決したとみて間違いない。ワシントンで反日デモ決行が予定された正午には、既にそれをすべき理由を失っていたのだ。

 フレイザー:あなたは、KCIA が反日デモの計画を中止したことを示しました。その決定が下された場所はワシントンですか、あるいはソウルですか?
 金:ソウルで下されました。
 フレイザー:これはいつ起こったのですか?
 金:キャンセル指示の正確な日付については、ハッキリとは思い出せませんが、最初の編成指示が来てから10日か15日くらいだったと思います。
 フレイザー:デモ中止の命令をどのようにして知りましたか?
 金:デモを中止せよとの指示を読みました。
 フレイザー:電信でしたか?
 金:はい、それは電信でした。
 フレイザー:ソウルのKCIA本部がデモの計画を中止することを決定した理由を知っていますか?
 金:存じません。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月6日)

 金相根の証言は、ソウル本部がデモ中止の決定を下したことを示しているが、興味深いのは本部がワシントン支局へ反日デモを指令したのはいつ頃なのかを間接的に示している点である。すなわち、9月14日から逆算し、これまで示した出来事と突き合わせると、ソウルが指令したのは、木村外相が「北朝鮮が韓国にとって脅威であると日本政府は考えていない」と国会中に発言したことに端を発し、韓国政府が強硬な態度に転じる8月29日頃か(こぼれ話(4)参照)、遅くとも、木村外相が「韓国政府は朝鮮半島唯一の合法的な政府ではない」という見解を支持した9月5日頃(こぼれ話(5)参照)であることが浮かび上がる。つまり、いずれにせよ木村外相の発言をきっかけにKCIAが動いた可能性が高い。

 話は逸れる。ワシントン支局は在米韓国人の説得に難航したものの、金相根が成功したことはこぼれ話(2)で取り上げたが、その彼らも同様に時機を逸してしまっている。FLFのデモ決行が14日になったのは、KCIAの依頼が(おそらく)12日なのでやむを得ないが、彼らを説得できた時期もまた遅かったのだろうか?
 仮にソウル本部が9月5日(木)ないし6日(金)にワシントン支局へ指令を出したとすると、説得に時間が掛かり、デモへ参加する人数を揃えられる週末には間に合わなかったのかもしれない。であれば、翌週末の14日や15日にデモが予定されていた可能性がある(が、14日未明にはデモをする理由が消滅)。
 ここまで読んでいただいた勘の良い読者なら、ある疑問に達するであろう。「なんで何週間もデモのアイデアを独自に練っていた統一教会はKICAに依頼されるまでデモをしなかったの?」
 ……考えられるのは〈お金〉だろう。費用対効果が無いと考えたのだろうか。そう考えると、KCIAワシントン支局長のキム・ヨンファン公使には「余計なことをしやがって……」と思わざるを得ない。

 話をソウルがデモ中止を決した時点に戻そう。先にも述べた通り、KCIAはFLFのプレスリリースはおろか、ワシントンでのデモを事前に止められなかった。やはり、プレスリリースかラナードの電話からデモが決行されるのを知った(知っていても米国務省から言われるまでその有害性に気づけなかった)と見るべきだろうし、ワシントン支局からの問い合わせでソウル本部も当日のデモを知った、と考えるのが自然であろう。つまり、ソウル本部とワシントン支局、あるいはワシントン支局と統一教会の間で連絡がとれていなかったのは明らかだ。この反日デモ未遂事件は、図らずもKCIAが統一教会を統制など出来てないことを示している。

(7)へ続く。



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