引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。
発言者一覧
○土井たか子……衆議院議員(日本社会党)
○松永信雄……外務省条約局長
○木村俊夫……外務大臣
○ダン・フェファーマン……自由リーダーシップ財団(FLF)評議会メンバー。1974年当時は事務局長。
○ドナルド・M・フレイザー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員長
『ワシントン反日デモ事件』を深掘りする(日程篇〈後〉)
引き続き「日韓関係:1974年8月から9月の出来事の年表」から当時の日韓(および米韓)情勢を見ていこう。太字は訳者により朝日新聞記事から追記した部分。
この木村発言もまた国会議事録から長文ではあるが引いてみたい。
要は日韓基本条約締結当時となんら変わらないという認識であるが、北朝鮮に与しかねないこの発言は、朴正煕政権を刺激したであろうことは想像に難くない。(8月19日および同月29日の発言も含めた)木村外相の一連の発言は、日本の立場からすれば決して間違ってはいないが、さすがに不用意の誹りは免れない。
事実、この発言以降、反日デモはさらにヒートアップしていく。
文世光事件から始まり椎名特使の訪韓で終わる、ひと月少々の日韓関係危機の間、日本国民に最大の衝撃を与えたのが日本大使館乱入事件であった。機動隊が守っていなかったわけではなく、一部のデモ隊が乱入したのは30分足らずであったのだが、割られた窓ガラス、引き裂かれた日章旗、黒焦げになった日本大使館広報館用ジープなど、ビジュアルインパクトは絶大であった。
9月12日、田中首相は外遊に発った。これはもはや親書に手を加えられないことを意味する。日本政府は特使派遣と親書の宛先については韓国政府の条件をのんだが、朝鮮総連規制の明文化については一貫して拒んできた(こぼれ話(4)参照)。親書には総連への規制は書かれていないことは明らかだったが、それでも韓国政府は13日午後に重大発表をするとぶち上げ、日本政府に更なる圧力を掛けてきた。
また、同日にKCIAワシントン支局から統一教会へ反日デモの依頼が来たとする文鮮明の発言(『報告書』44ページ)を、フェファーマンの証言内容等から信憑性が高いとしたのはこぼれ話(3)の通りである。
反日デモの決行日はいつ、何を基準に決まったのだろうか。
残念ながら証言者の話からデモ決定までの過程は見えてこない。だが、サロネンやフェファーマンらが文世光事件の直後から計画を練っていたということは、統一教会はKCIAの依頼とは関係なく独自にデモを計画していたのではないだろうか? とすれば、翌々日という短期間でデモを決行にまでこぎつけたことは不思議ではない。
さらにこの時期、文鮮明は前年から全米50州の各都市を廻る「希望の日」ツアーの最中であり、9月18日にはツアーのハイライトといえる、マディソン・スクエア・ガーデンでの講話が控えていた。それまでにデモを決行し、教団の宣伝材料にしたいという思惑は当然あっただろう。
あと、これは与太話の類だが、数秘術を好む文鮮明が、ホワイトハウスでの田中・フォード会談(9月21日)の7日前を選んだ可能性はある。
決行日が14日になったことは、結果として安川駐米大使が難を逃れたことを意味していた(こぼれ話(3)参照)。
ソウルではこれまでで最大のデモ隊が市内に溢れ、緊迫の度合いが深まってきた中で、ワシントンは9月14日を迎えることになる。
(6)に続く。