引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。
発言者一覧
○石野久男……衆議院議員(日本社会党)
○小谷守……参議院議員(〃)
○田英夫……参議院議員(〃)
○木村俊夫……外務大臣
○町村金五……国家公安委員長
○渡邊次郎……公安調査庁次長
『ワシントン反日デモ事件』を深掘りする(日程篇〈前〉)
ここで、『合衆国における韓国中央情報部の活動』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会の付録として「日韓関係:1974年8月から9月の出来事の年表」という資料があるので、事件の背景にあった日韓関係を米韓関係を踏まえつつ見ていきたい。
ちなみに元の年表の作成者であるウィリアム・ガーベリンクは当時フレイザー小委員会のスタッフで、のちにジョージ・W・ブッシュ政権時の在コンゴ駐米大使を務めた。この年表の情報源は、1974年8月・9月のジャパン・タイムズ、ニューヨーク・タイムズ、およびワシントン・ポストであるが、訳者が当時の朝日新聞記事をもとに出来事を追加してある(太字部分。出来事は現地時間)。
ここまでは、金大中誘拐事件に関して攻める日本政府に対し守勢に廻る韓国政府という構図だったが、翌日の光復節に状況が一変してしまう。
文世光事件で立場が逆転し、文世光を使嗾したとされる朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)に対し断固たる捜査を求める韓国政府に対し、日本側は、韓国側には消極的と見える捜査に留まっていた。文世光が日本国籍を持たぬ在日韓国人だったため、当初から事態を軽んじていたこともあるが、最大の理由は破壊活動防止法(破防法)の限界があった。その点に関し、国会答弁にて端的に説明されているので議事録から引いてみよう。
関連して、8月19日の木村発言も国会議事録から引いてみよう。
田中首相の弔問と朴大統領との会談をもって日本政府は沈静化を図ったが、この外相の発言も仇となり、そうはならなかった。
韓国政府は日本側の協力に誠意がないと再三に渡り不満を述べたが、それでも、田中首相弔問の際は反日デモを素早く抑え込むなど、一定程度には抑制していた。ところが、
木村外相の更なるこの発言は韓国政府の態度を一転硬化させるが、ここは国会議事録から正確に引用してみたい。
のちに木村外相はこの発言について釈明している。
木村外相の発言は従来からの日本の姿勢を示したものに過ぎなかったが、韓国マスコミが「木村妄言」と煽ったこともあり、火に油を注ぐ格好になった。
国の首脳が他国の大使に面と向かって恫喝まがいの行為をおこなった、この問題は本来、新聞の1面トップに載るべき重要な出来事であった。しかし、1面には載ったもののトップを飾ることはなかった。なぜなら同日の昼間、三菱重工本社ビル爆破事件が発生したためである。
朝鮮総連の扱いをめぐる日韓両政府の攻防は交渉の最後まで続くことになる。
(5)に続く。