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5分で読めるアルベルト・アインシュタイン~世界の伝記③~


アインシュタインは一般相対性理論を生み出した天才科学者。

読む前は「下を出してる写真の人!」としか知りませんでした。

正直読んだ後も相対性理論を理解できた訳ではありませんが、科学者として戦争反対を訴え続けていた人と知ることができました。

日本にも来日したことがあり原爆にも関わっていたと分かって、まとめるのに時間がかかってしまい、ちょびっと長くなってしまいました。


あらすじ

1879年ドイツ南部のウルムで生まれ、父親は古い時代に国をなくして世界中に散らばって暮らしたユダヤ教を信じるユダヤ人で、1歳の頃に一家で南ドイツの経済と文化の中心地であり大都市のミュンヘンへ引っ越す。

5歳の頃からいつも南北を指す磁気コンパスへの疑問がきっかけで、物理学・化学・生物学・地学など自然の中の様々な出来事や事柄を研究する学問「自然科学」に興味を持つようになる。

小学校の頃は歴史や語学などの暗記がもっぱら不得意で9歳になると、中学と高校を合わせた学校「ギムナジウム」へ入学する。

12歳の時にギリシア人の大数学者で物の形や大きさ、図形の性質などを研究する数学分野、幾何学の体形を作り上げたユークリッドの「幾何学原論」に夢中になる。

15歳の時に父親の会社が経営困難になり、アインシュタインを残してイタリア北部最大の工場都市、ミラノへ移るが一人暮らしの寂しさに耐えられなかったことやギムナジウムの規則ずくめの生活に溶け込めず精神が病み、16歳の時にギムナジウムを中退してミラノへ向かう。

スイスで最も大きな都市チューリッヒの大学試験に失敗したが、数学と物理の点数が良かったことから学長の紹介でチューリッヒ近くにある都市アーラウの州立ギムナジウムに入学する。

その後ギムナジウムを卒業し、チューリッヒのスイス連邦工科大学に入学し、迷わず物理学を専攻して21歳の時、大学を卒業するが就職が決まらずギムナジウムの理科の臨時教師をしながら論文を書いていた。

23歳の時、スイスのベルンで特許局の技官になる。

アインシュタインの研究がフランスの物理・数学者ポアンカレやポーランド生まれの物理・化学者キュリー夫人など世界の学者達に認められるようになり、29歳の時ベルン大学で物理を教え、翌年にはチューリッヒ大学の助教授として招かれ、その2年後にはチェコのプラハ大学の物理学教授として招かれる。

この頃チェコはまだ国が出来ておらず、ドイツ系の王が治めるオーストリア・ハンガリー帝国の支配を受けており、チェコ人達は独立を勝ち取ろうとオーストリア人やドイツ人達との間で争いが絶えずチェコに馴染めなかったアインシュタインだが33歳の時に運よく自身の出身校であるスイス連邦工科大学から正教授として招かれスイスに戻る。

35歳の時ドイツのベルリン大学教授なるが、この頃ドイツはオーストリアやイタリアと手を結び軍隊を強めていた時期で、ベルリンでの生活に馴染めない妻は子供を連れてスイスのチューリッヒに帰った。

1914年に第一次世界大戦が始まったがアインシュタインは科学者は平和のためにこそ戦うべきとヨーロッパの平和と統一を呼びかける「ヨーロッパ宣言」に署名して、戦争反対を訴えていた。

ついに、一般相対性理論が完成するが胃潰瘍と胆のうの病気になり療養していた。この時期に看病をしていたのはいとこのエルザだった。

1918年に第一次世界大戦が終わった翌年、一般相対性理論を実験で証明する。
その方法は、太陽全体が月に隠される皆既日食が起こる日に太陽の影に隠れて見えないはずの星の光を写真に撮ることに成功し、星の光が太陽の傍を通るとき重力の影響で曲がることを証明した。

妻と離婚し、いとこのエルザと再婚。43歳の時に日本を訪れて全国各地で講演を行なった。
同じ年に優れた業績の人に贈られるノーベル物理学賞を受賞した。

ドイツ、ベルリンに戻ると第一世界大戦に負けて経済がいきずまり国民の生活が苦しくなっていた。

またドイツ人政治家のヒトラーがドイツ全体の利益を一番大切にする考え方の政党、ナチスの指導者となり独裁政治を起こしユダヤ人の追放などが起こっていた。
この頃からアインシュタインは平和運動に積極的に行なっていた。


51歳の時にアメリカ、カルフォルニア工科大学の客員教授に3年の約束で招かれた。アメリカからドイツに帰る際にナチスのヒトラーが政権を握りアインシュタインの別荘に兵隊が踏み込んだり、銀行預金などの財産を全て取り上げられる情報が入り、ドイツに帰るのは危険なためベルギーに滞在した。

ドイツ、ベルリンでユダヤ人の学者や作家の本がナチスによって焼き捨てられ、その中にはアインシュタインの相対性理論の本も入っていた。
ナチスはドイツ国内で相対性理論を教えることを禁じた。


54歳の時にアメリカ、ニューヨークのニュージャーージ州西部の町プリンストンにある高級科学研究所の終身会員として迎えられた。

ドイツが、放射能を持っている元素で放射線を出しながら他の元素に変わっていき最後には鉛になる「ウラン原子」で、原子の中心にある原子核が2つ以上に分かれて大きなエネルギーが生まれる「核分裂」させる実験に成功したことを知り、ナチスが核分裂のエネルギーを利用する爆弾、「原子爆弾」を作るのではないかと恐れる。

1939年、第二次世界大戦が始まる。

60歳の時に世界をナチスから守るために、アメリカのルーズベルト大統領に原爆の開発を薦める手紙にサインした。

66歳の時、アメリカは原子爆弾の実験に成功したがイタリアもドイツも無条件降伏をしており、敵国は日本のみだったため広島と長崎に原爆は落とされ1945年に第二次世界大戦は終わった。

70歳の時に大動脈瘤の手術を受ける。

73歳の時、イスラエル大使から戦後生まれたユダヤ人の国家、イスラエルの大統領になってほしいと手紙が来るが断った。


76歳の時、入院中に哲学者で平和運動にも熱心だったラッセルが書いた核兵器の廃止を目指す宣言、「ラッセル・アインシュタイン宣言」にサインし、1週間後に亡くなった。

ラッセル・アインシュタイン宣言には「色々な政治的な対立はあるが、人類という生物の種が絶えるような事態を招く核兵器を持っているということ...このことは全てに優先して止めなければならない」と書かれていた。


アインシュタインの亡骸は遺書に従って火葬され、その灰はアインシュタインが亡くなったプリンストンにも流れているアメリカ東部のデラウェア川に撒かれた。



学んだこと・感じたこと

・誰にでも得意なことと、不得意なことがあるが「得意なこと」に焦点を当てることの大切さ

・自分が発見したものが戦争に利用されることへの葛藤があったが、それでも世界平和のためにと決断して原爆の開発を薦める手紙にサインしたということ



行動すること

・一般相対性理論を簡単に説明できるぐらい勉強する
・平和運動とは具体的にどのようなことが行なわれていたのかを学ぶ

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