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【短編小説】真っ赤な雨

真っ赤な雨


あまり治安が良くないこの地域でその男はいわゆる優男として知られていた。
いつも消えてしまいそうな儚い笑みを浮かべていた。
「よく、お前は悩みがなそうだなぁ」などと独りごちながら私を撫でた。

男は意地悪な大家の老婆にも、パワハラ気味の上司にも、金を無心する同僚にも、浮気ばかりしている恋人にも、そして部屋を飛び回る虫にすら優しかった。
まるで怒りという感情を持ち合わせてていない凪のように穏やかな男だった。

だけど私は知っていた。
男が五年間毎日、うなされながら
「燃えている、助けて、内側が燃えている…苦しい」呟いていたことを。
穏やかな顔をしながらもいつも手のひらを固く握りしめていたことを。
私だけは幾度と見ていたのだ。
穏やかな顔した男が必死に何かを抑え込もうとしているところを。

梅雨に入ると、男はよりいっそう苦しんだ。
私はこの時期になると男の家に入り浸りこの男の隣で寝そべった。
ある晩男はひたすらに謝っていた、
「たま、傷つけててごめんね。」と。

近頃の男は穏やかそうに見えるがどこかで落ち着かない様子だった。この辺りで顔馴染みのないスーツ姿の男たちが出歩いているのと何か関係があるのだろうか。

昨夜、男は奇妙な夢を見ていたようだ。
「真っ赤な雨が降っている。」
と繰り返し呟いた。
朝起きると、男はいつものように私の餌を用意し、テレビをつけた。
男は財布をつかみ取るや否や慌てて部屋を出て行った。
これっきり私が再び男の姿を見ることはなかった。

遠くでレポーターの声が聞こえてきた、
「5年前一家全員と飼い猫を殺傷し世間を脅かせた殺人犯がこの辺りで目撃されたとの情報が入ってきました。」

レポーターはさらにこう続けた、
「幼いころから長年に渡り続いた家族からの虐待が犯行動機とおもわれます。
なお、男の幼少期を知る近隣住民によりますと、男は虫も殺せないほど優しい少年だったとのことです。」

毎年梅雨になると私はふと考える、果たしてあの男はその後どうなったであろうかと。

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