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ママになって知る、父の“なんでもない日の贈り物”の意味

実家で暮らしていた頃、甘いものを食べない父が、よく仕事帰りにコンビニのスイーツを買ってきた。ふわふわのクリームが挟まれたケーキや、フルーツがちょこんと乗せられたプリン、モンブランが鎮座したパフェ。買ってくるのは母・妹・私の3人分だけだった。

「お父さんは食べないのに申し訳ないな」と子どもながらに思いつつも、家族のためだけに買ってこられたデザートは素直にうれしかった。どうしてなんでもない日にわざわざ買ってきてくれるのか不思議でならなかったが、最近になって父の気持ちが少しわかったような気がする。


私には5歳になる息子がいる。ママっ子の彼はかわいらしく、「目に入れても痛くないとはこのことか!」と実感するほど愛おしい存在だ。

私はスーパーに行くと、必要な食材以外に、息子が喜ぶものをついつい買ってしまう。おまけ付きのお菓子、キャラクターシールが入ったソーセージ、おもちゃが出てくるバスボール。必要のない棚に目を走らせながら「これは喜びそうだな」と考えていると、うっかり財布の紐が緩んでしまうのだった。

家に帰ってから、内緒で買ったものは息子が開けるお菓子の引き出しにそっと入れておく。「いつ気がつくかな」とそわそわしながら、息子の動きを目で追いかける私。ついに引き出しを覗き込んだ息子の顔に、喜びがパーっと広がるのが見えた瞬間、「やっぱり買ってあげてよかった」と心の底から幸せな気持ちになるのだ。

きっと息子のうれしい気持ちより、私の「息子の笑顔が見れてうれしい」気持ちの方が、遥かに大きいと思う。たった数百円でこんなに幸せな気持ちになれるなんて、子どもが生まれるまで知る由もなかった。


ふと「もしかして、父も同じことを考えていたのかもしれない」と気がついた。仕事帰りにわざわざ車を停めてコンビニに寄り、自分は食べもしないスイーツを選ぶ。「ケーキはこの前買ったから、今日はプリンにしよう」とか「新商品なら喜びそうだな」とか、そんなことを考えていたかもしれない。

買い物カゴに入れるのは、スイーツ3つだけ。家に着いて「ただいま」と一言かけたあと、静かにコンビニ袋を冷蔵庫に入れる。普段感情の動きがあまり見えない父も、少なからず私のようにドキドキしていたのだろうか。冷蔵庫を開けた私の「お父さんデザート買ってきてくれたんだ。ありがとう♪」という声を無表情で聞きながらも、内心は微笑んでいたのかもしれない。


「プレゼントは、もらう側だけがうれしいものじゃないんだ」と今更ながら気がついた。贈る側は選ぶときから相手の喜ぶ姿や笑顔を想像して、あたたかな気持ちになる。渡すときまでその気持ちが続くのだから、もしかしたら贈る側の方がずっとずっと喜びが大きいものなのかもしれない。

一方で、これまで私はプレゼントをもらうと、お礼もそこそこに「なにかお返しをしなくちゃ」という考えがすぐに脳裏をかすめるようになっていた。結婚祝いや出産祝いなどで、「半返し」文化を知ってしまったからかもしれない。「いい大人なんだから」とマナーばかり意識しすぎて、心から喜ぶ姿をろくに見せず、相手の気持ちを蔑ろにしてしまったことがあるかもしれない。

プレゼントは見返りを求めてするものじゃなく、相手にただただ喜んで欲しくてするものなんだ。見返りを求めるくらいなら、時間をかけて品物を選ばずに、現金を贈ればいいだけの話。自分が心を込めて贈る側になってみて初めて、喜ぶ姿を見せることが一番のお返しになるのだと学んだ。


ところで、父が今熱心にプレゼントを贈る相手は孫になった。今やなんでもない日のプレゼントはスイーツに止まらず、好きなキャラクターのグッズや洋服、ちょっとしたおもちゃまでラインナップされている。あるときには誕生日に贈るような豪華なおもちゃが出てきて、度肝を抜かれたこともあった。

プレゼントの守備範囲よりもさらに驚いているのが、贈り物をするときの父の姿だった。息子にプレゼントを渡すときの父は満面の笑みが溢れていて、たまに「じゃーん!」なんていう陽気な効果音までついてくる。

「じいちゃんありがとう!」と息子が喜びを爆発させると、父は幸せを噛み締めているようだった。そんな父を見ると、未来の自分を見ているような気持ちになる。私も愛くるしい笑顔を見たいがために、孫にせっせとプレゼントを贈るおばあちゃんになるのかもしれない。

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