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【エッセイ】エンパス!現実主義の母と私と幽霊と 25. 旦那の最期

 余命二週間と宣告され、最期となった入院生活。末期癌という、やはりそれは重い病気であるだけに本人も、そして付き添う側もとても辛いものだった。

 いつどうなるか分からないので私はほとんど家には帰らず病院に寝泊まりしながらの付きっきりでの看病状態。
 看病と言っても私が出来る事はたかが知れていて、身体を拭いたり食事を食べさせたりマッサージをしたり常に酸素濃度を見て90を下回ったらナースコールを押すぐらい。あとはお見舞いに来た人の対応とか。

 毎日来る見舞客はそれはそれは多かった。
 一日50人以上来る日もあって、病院の先生も看護師さん達も驚くほどだ。それだけ旦那の交友関係は広かった。

 その友人たちにとって旦那の病気は一大事だった。その姿はまさに結婚前の私そのもの。
 とにかく居ても立っても居られない、何かしてあげたい、何かせずにはいられない。みんながみんなその思いで、まるで昔のアイドルの親衛隊のごとく場を取り仕切る人まで出てくる。

 旦那は毎日そんな見舞い客との面会をしていたが、大人数でしかも長い時間ともなるとやはり段々としんどくなったようだった。でも入院初日にブログで“会える人には会っておきたい”と書いた手前、面会を断る事はしなかった。


 私はそんな友人達がうらやましかった。
 夫婦ではなく、私も友人であったならあんな風に喋ってもらえたのかなとか、同じ様に笑ってくれたのだろうかとか、そんな風に思っていて。
 私はあの友人たちのように喋ってはもらえなかったから。

 旦那の残された生命エネルギーは全て友人たちにあてられた。
 面会が終わると今日の体力の限界がきて寝てしまうし、面会の後は必ず具合も悪くなるから私はその分の苦しみ、イライラを受け止めねばならなかった。

 友人には優しい言葉をかけるのに、家族である私には「うるせえ!」とか「ウゼェんだよ!」とか、あとは短い単語でしかものを言われない。
 結局、最期まで私とは大事な話などしようとはせず、あの人は永眠してしまった。
 余命二週間と宣告されていたけど、実際には1ヶ月後の深夜に息を引き取った。


 死亡宣告を受けた時もその後も私はボーッとなっていて涙は全く出なかった。涙が出ないほど薄情な人間なのかと自分で思ったが、葬式などを終えた四日後に急に涙が止まらなくなり私は号泣してしまった。

 不思議なものだ。もう愛などないと思っていたのに、一度冷めて情だけで繋がっていた間柄だと思っていたのに、悲しみが溢れて止まらない。

 一度くらいは結婚記念日のお祝いをしてみたかった。誕生日やクリスマスにはプレゼントをもらってみたかった。ハグくらいはされたかった。友人より私を優先して欲しかった。
 そんな振り返れば不満ばかりで、途中で恨んだりもしたけど、それでもやはり共に乗り越えてきた日々や、楽しかった日の記憶、そして一度は愛した人という紛れもない事実が胸を締め付ける……。

 とにかく、あの時はいろいろなものがごちゃ混ぜになっていた。うまく説明出来ないけれど、やはりショックと喪失感でしばらくは途方に暮れてしまった。

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