2023年と小説について

2023年最大の事件は、何といってもceroの5thアルバム『e o』との出会いだった。歌詞の虜になってしまい、長すぎるnoteも書いた。それをきっかけとして、小説への本格的な興味が湧いた。この一年で最も嬉しかったことだ。

僕は小説にあまり触れてこないで生きてきた。読みたいとは思っていたが、そもそも読書量が少なかったのもあって、ピンとくる作家やジャンルに出会えなかった。多感な時期にぜんぜん本を読まなかったことはとても勿体なかったなと今になって思う。ただ、読書感想文をはじめ「課題」として本を読まされるのはすごく嫌だった。

何となく私立大学の文系学部に入った。二十歳を過ぎた頃になってようやく、ふと大学って本を読むところなんだなと気がついた(卒業から年数が経つにつれ、大学の図書館がいかに充実していたかを思い知らされる)。その時も思想書や哲学書には興味があったが、小説にはほとんど惹かれなかった。夏目漱石やO・ヘンリを読んでみたが、いまひとつ熱中できなかった。「これだ!」という作家に出会えないで歳を取ってしまうのか…と心の隅っこで悲しく思っていた。

そういう思いもあって、一応ここ数年の目標には毎度「小説を読むこと」を掲げていたのだが、今年も序盤は哲学書の引力が強かった。古本で買った千葉雅也『現代思想入門』を読み、その流れで東浩紀『存在論的、郵便的』をつい読んでしまった。『郵便的』は大学生の時に何度か挫折していたが、千葉の提示してくれた簡単な見取り図のおかげで読み通すことができた。『郵便的』は僕にとって喉に刺さった魚の小骨のように気にかかっていたので、あとがきまで辿り着いたのは大変嬉しかった。

小説を読まずに年が明けて数か月経っていた時、『e o』がリリースされた。最初はサウンドの良さに魅了されていたが、次第に歌詞にも興味が出てきた。歌詞を担当した髙城晶平の解説をラジオで聞き、そこで「Angelus Novus」がベンヤミンを下敷きにしていることを知った。哲学を直接にポップスの歌詞に反映させていたことが意外で、早速ベンヤミンの本を図書館で借り、詩的な歌詞をじっくり読みこむことに熱中した。自分のなかの哲学への興味が、音楽の介入により思想書以外への広がりをもったと思う。

ceroの過去作も遡って聞いていく中で、ceroの歌詞と東浩紀の哲学の共通点に気がついた。幽霊=ありえたかもしれない可能性を思考しているという点だ。好きな物が自分の中で結びついて嬉しくなり、noteを書いた。2、3か月かかったと思う。時数的にも文体的にも卒論を書いているような気分だった。恋をすると身だしなみに気を遣うようになるのと同じように、アウトプットを前提にしたので高い解像度で本を読めたと思う。

今まで生きてきて、ありえたかもしれない可能性について意識的に考えたことはほとんどなかった。もちろん、あの時これと出会っていなかったら、あの時もう一方を選んでいたなら…という仮定について、日常的に考えてみたり話題に出たりはするものの、その「別の世界線を考えること」自体をメタに考える機会はなかった。『郵便的』を通読したときも、否定神学の話は強く印象に残っていたが、仮定法的な話についてはそれほどでもなかった。

けれども、ceroの世界にも東浩紀の哲学にも、ありえたかもしれない可能性への志向がたまたま共通していたことにふと気がついて、「あれ?こういうことを意識的に考えている人って案外いるのか」という新鮮な驚きがあった。世界の見え方が少しだけ変わった気がした。その新鮮な考え方への知的好奇心がnoteにも表れていると思う。

noteを書き終えた後も、ありえたかもしれない可能性へのアンテナは張りっぱなしだった。その流れで東浩紀の小説『クォンタム・ファミリーズ』を読んだ。並行世界(ありえたかもしれない可能性)が主題となっていたからだ。複雑だったが、かなり面白かった。『郵便的』と『クォンタム・ファミリーズ』を連続して読んだので、理論編と実践編という風にも読めた。何かを伝える乗り物=メディアとして、物語は論文よりも強力なのかもしれない。物語の形式を取らない文学もたくさんあるのだろうが、物語のもつ力を感じて、文学というものへの興味も湧いた。

『クォンタム・ファミリーズ』の中で、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』について言及されていた。調べると『クォンタム・ファミリーズ』の構成(交互に別の世界の話が語られる)は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が由来らしい。ふたつの並行世界の話だという。これは読むしかないと思って読んだ。50ページ過ぎたくらいでグッと惹きこまれてしまって、久々に電車を何回か乗り過ごしてしまった。あらすじは深刻にしようと思えばいくらでも深刻にできると思うが、「やみくろ」とか「記号士」とか、あまり力んでいない言葉選びが独特の軽さを生んでいるように感じた(台詞回しも大いにあると思うが)。

そういえば、ceroの作品も村上春樹からの影響が大きい。マジック・リアリズム(現実と非現実が入り混じっている)的な世界観はもちろん、とくに『Obscure Ride』の「影がない」というテーマは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を想起せずにはいられない。『My Lost City』と「マイ・ロスト・シティー」は村上の訳したフィッツジェラルドの作品(集)の題名であり、『Poly Life Multi Soul』の「夜になると鮭は」は村上の訳したレイモンド・カーヴァ―の詩の引用だ。

すると、たまたま村上春樹にインスパイアされた作品にハマり、導かれるようにして源流に遡っていたということになる。好きなものを楽しんでいくなかで、読みたいと思える作家に辿りついたのは嬉しかった。

遭遇はこれが3回目だったと思う。最初の出会いは中学生の時。実家に置いてあった『ノルウェイの森』だった。でも未熟な僕には意味不明で、最初の方で読むのを諦めてしまった。大学生になってからふと思い立ってもう一度挑んでみた。さすがにその時は最後まで読み通すことができた。とはいえハマることはなかった。もしその時『ノルウェイの森』ではなく『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいたら、人生もっと違ったのかもしれないし、やはりハマることなく同じ人生だったかもしれない。

2023年は最新作『街とその不確かな壁』で締め括った。「別バージョン」である『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と続けて読んだのは良い選択だったと思う。『街とその不確かな壁』は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と「あくまで併立し、できることなら補完しあう」というビジョンのもとに書かれたと、著者自身があとがきで解説している。両作品をつづけて読んだことで、それがありありと感じられた。

壁の中の世界はだいたい同じだったが、微妙に異なる部分もあった。〈古い夢〉が頭骨かそうでないかなどだ。だから、あきらかに別の本を読んでいるのに同じ物語を読んでいるような錯覚=デジャヴに陥るが、その錯覚に軸足を移すと、小さなズレによってやはり異なる本を読んでいるのだという現実に引き戻される。そのふたつの感覚を行ったり来たり、まさに壁の外と中の世界を行ったり来たりしているようだった。どちちが本物でどちらが偽物なのか、どちらが実体でどちらが影なのか。これらの問いから意味が消えてなくなるような、ゲシュタルト崩壊に近い感覚になったと思う。

ありえたかもしれない別の世界は、村上春樹自身の実存的な問題なのだろう。最近のインタビューで次のように語っている。

時々、自分が小説を書いて生きていることが信じられなくなる。29歳まで作家になろうと思わなかったし、突然、本が売れて、世界に翻訳された。本当に不思議なことです。だから人生の岐路のような、あのとき、こっちではなく、あっちに行っていればどうなっていただろうという気持ちはすごくあります。『今ある世界』と『ここではない世界』はつながっている。別の世界の自分は今も、ジャズ喫茶の主人をしている気がします

読売新聞

「いまここ」の自分が影で、どこか別の世界の自分が本体だと感じられることがある。小説のなかの言葉でいえば、そう言い換えられるだろう。

2024年は村上作品を本腰入れて読んでいきたいと思う。でも「ハルキスト」とは呼ばれるのは遠慮したい(むしろ積極的にそう呼ばれたい人はいないのかもしれないが)ので、村上作品の読者であることはなるべく言わず、こそこそと「村上主義者 Murakamist」でいるのがよさそうだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?