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介護のポテンシャル 第3回 「制度に縛られた介護で入居者は幸せになれるのか?」

みなさんこんにちは!
社会福祉法人サンシャイン企画室の藤田です。

毎回お待たせしております!
考えてみるとこの企画、なんと昨年10月以来ということでつまり約10ヶ月ぶり?
いやいやいや。どうにも自分ながら呆れております。

ということで第3回、たっぷりとまいりましょう!

テーマ:『制度に縛られた介護で入居者は幸せになれるのか?』
講演:森藤新部長

本日は、現状の「介護」のあり方についてわたしが日頃考えていることをみなさんにお話しし、その問題点を指摘するとともに、その問題を解決するためにささやかな提案をさせていただきたいと思います。よろしければ少しお付き合いください。

介護保険という制度の下で

みなさんご存知のように、現在はほとんど全ての介護業務が「介護保険制度」のもとで実施・展開されています。そうなると必然的に、介護業務をついつい介護保険制度の枠に当てはめて考えるということになってしまいます。そうなるとどうなるかと言うと、介護報酬に匹敵しない業務は軽んじられ、制度の決まり事を果たすことをメインに考えるようになってしまいます。
 
よく見られるのは「加算」がつくから一生懸命その対象となる業務を行なうという場面です。でも考えてみればあたりまえなのですが、それが本当に重要なことであるならば「加算」がつく前から取り組んでいてもよさそうなものです。でもそうはなっていない。
 
そのいい例は、先の法改正(令和3年度改正)でメインテーマともなった「Lifeシステム」というものでしょう。厚労省にとって具体的な形でつかめないでいた「介護」という実践のデータを手元に集めることで何らかの指導を行えるようにするシステムですが、これなどはこの加算を得るためにするべきことが指示されているわけですから、介護職員としてはとてもやりやすい。
 
しかし、わたしが忘れてほしくないと思うのは、入居者にとって本当に重要なことは、介護保険の制度に当てはまらない、介護報酬の対象にならない部分にこそある、ということです。入居者にとって本当に重要なことは介護保険の下では極めて見えにくいものなのです。
 
なぜなら、それらは往々にしてそれ自体具体的な形をもっていないし、さらにそれらが実現されていることも確認しにくいからです。更にそれらは介護職員個々人の良心基準に委ねられているということなのです。

わかりやすい例:ADLとQOL

例えばADLとQOLを比べてみると分かりやすいと思います。

ADL(Activities of Daily Living:日常生活動作)は日常生活を送るために最低限必要な日常的な動作で、「起居動作・移乗・移動・食事・更衣・排泄・入浴・整容」などの動作のことを言い。これらの動作は「できる・できない」「どのくらいできるか」など可視的に判断することができるものです。ですから、ADLの改善をそのまま介護報酬につなげていくことが可能であり、介護職員として達成感を得られるものでもあります。

一方QOL(Quality of Life:生活の質、人生の質)については、各入居者にとってどうすることがQOLの向上となるのか、またどうすればそれが達成できるのか、なかなか形ある状態での把握が困難なものです。なので介護報酬的にも評価することが極めて難しいものとなります。

ですが、ADLとQOL、入居者にとってどちらが重要だと思うかと問われると、間違いなくQOLに決まっています。なぜなら、ADLの改善はQOL達成の一部分にすぎない、というかADLの改善はQOLを達成するためになされるものだからです。しかもADLの改善自体どこまで改善が可能なのかということを考えればそれには自ずと限界があります。

しかしQOLがいくら重要とは言え、介護報酬に反映しにくいQOLの向上のための努力を介護職員に求め実践させるのは施設としてもそう簡単ではないと思います。結果が目に見えて現れない捉えどころのない入居者のQOL向上のために頑張ろうとはなかなかなりにくいですし、それこそ余分な業務を増やして介護職員に負担をかけるだけ、ということにもなりかねません。

施設行事というもの

QOL向上のために行われることのもっとも顕著な例として「施設行事」を考えてみましょう。

施設行事というのは、施設内で行なう慰問グループなどによる音楽や歌・踊りなどの演芸、あるいはお買い物・花見・初詣などの外出行事、果ては宿泊温泉旅行などのことです。これらの行事はほとんど介護報酬の対象にはなりません。

ですから施設の経営者サイドからみると、よほど入居者の心情に共感をもっている人でない限り、介護職員にそれなりの労力を負担させてまでこういった行事をやるようにとの指示は出しにくいものです。なのでこういう行事をやろうという意見は現場で入居者と日常的に接している介護職員など以外からはなかなか出てきません。

そしてそういう声を上げる介護職員がいない施設からは、施設で行事をしようという炎がだんだん消えていくことになります。もっとも今は「コロナ禍」の時期なので、むしろ行事を行うことがはばかられ、よい口実ができたと言えなくもありませんが。

その点、介護保険導入前の措置時代は現在に比べると、施設行事に関して行政も施設側の者も、もっと大雑把でおおらかでした。もちろん特養などに対しては監督官庁による監査があってちゃんとした処遇を行っているかとかチェックは入ったのですが、それで報酬がどうこうというものではなかったのですね。ですから介護職員はもっと自由奔放にやりたいことを口に出して、それを全体の行事につなげていくような様子が多々みられたものでした。制度で縛られていない分、入居者をどう楽しませるか、ということを結構メインに考えていたように思い出します。

措置時代と介護保険時代。その違いは?

こう振り返ってみますと、入居者にとって最も重要なQOLの向上について、介護保険が始まる前と後とでその実施状況がかなり違っていたんだなあと思えます。だとすると介護保険がずいぶん悪者に聞こえるかもしれませんね。でもわたしの考えではそうではないのです。介護保険そのものがその原因なのではないと思います。

措置時代の介護職員が大雑把でおおらかであり得たのは、介護保険がない時代だったからではなく、単刀直入に言うと世間の施設を見る目がそんなに厳しくはなかったからだ、というよりほとんどの人々は施設の中で何が行われているかあまり関心がなくブラックボックス状態だったからだと思うのです。

言い換えると、当時と今では多くの人が入居者や施設に対して抱いている「介護施設観」のようなものがかなり異なっているのではないか、と思うのです。

と言うのも、その当時特養にお年寄りが入るということは、そのこと自体が家族にとってはもちろん、ひょっとしたら当人にとっても、福祉の制度のお陰で親のあるいは自分の生活のお世話してもらえるという「ありがたいこと」であって、そうである以上施設の行なうことにはよほどのことがない限り文句を言うことなどほとんどありませんでした。

ところが今はどうでしょう?

平成12(2000)年、国民全員が40歳になったら否応なく介護保険料を支払うことが義務となった介護保険が始まりました。以来22年。要介護者が施設に入るということは、措置していただけるありがたいことではなく、「受けて当たり前の権利」だということになったのです。

そうなると入居者自身やその家族さえも、思うがままの意見をあれこれと言えるようになりました。

これは基本的には「人権」上大変喜ばしいことなのだと思います。

ですがどういうわけかそのことが日本においては介護制度上の閉塞感をもたらすようになったのだと思えます。

介護の業界の内外から出てくるそうした様々な意見に対応すべく、行政は立て続けに改正案を繰り出し、介護職員はそうして繰り出された決まりごとに追いついていくだけで青息吐息の状態となります。

その結果、今ではもう誰もQOLの向上などと言わなくなってしまいました。だってそのためのADLの改善を実施するだけで大変なんですから。

「生活の場」としての施設

でもそれで本当にいいのでしょうか?もう一度考えてみましょう。

わたしは、特養という施設を「介護」施設という観点のみから見てしまうと、入居者にとって非常に重要な視点を見逃すことになると考えています。

その重要な視点とは、入居者にとって介護施設は「介護」を受けるのみの施設ではなく、人生そのものを過ごす「生活の場」であるという視点です。

この「生活の場」という視点から見てみるならば、介護施設という「生活の場」が幸せなものになっていないなら、そこで過ごすその人の人生は不幸な人生である、ということになってしまいませんか?

ここが、例えば病院のように治療のために一時的に滞在する施設と「生活の場」としての施設との大きな違いなんだと思います。

行政もそしてわれわれも、これまで介護保険制度を構築・実施するにあたって、この「生活の場」という視点が抜けているように感じられてなりません。これでは、介護を受ける人は通常の人々の日常とは異なった生活を送るんだよ、それは仕方がないんだよ、介護保険の制度に合わせて自分の生き方を構築してくださいよ、少しぐらいは我慢をしてください、と言わんばかりに感じられます。

もう一度QOLを!

介護保険制度における「介護」とは、入居者が生活していくのに必要な「介護」をしていくことです。ですが、そうして行われる「介護」は入居者の「生活の場」において、実は「部分」的なことであることがわかります。その「部分」は、生活に困らないように周到に考えられてはいますが、あくまでも介護報酬に対応した「部分」的なことなのです。

ということは、入居者の生活にはそうした「部分」以外のところ、言わば介護保険ではカバーできない「空白」のところがあるということになります。というか介護が補う「部分」よりもむしろ介護が補わない「空白」のところの方が時間的にも意味的にも圧倒的に多いはずです。

そしてそうした「空白」のところこそがQOLの向上にとって重要な意味であり時間なのではないでしょうか?

だとすれば、この「空白」のところは誰がそして何をしてあげることができるのでしょう?

実は介護職員にはこの「空白」をどうにかしたいという「思い」があります。人によってそうした「思い」に強弱はあるでしょうけど、こうした「思い」をもっていない介護職員はいません。あるいはいたとしても少ないとわたしは思っています。というのも介護職員という仕事の大きな魅力はこの「思い」を自らの手で発現できることにこそあるからです。

そして介護職員のもつこうした「思い」は、彼や彼女が働く施設の管理者次第で、大きくもなれば小さくもなる、あるいは無くなって消えてしまったりもするとわたしは考えています。

施設の管理者は言うならばコンダクターです。コンダクターの指揮次第で、その交響曲が素晴らしいものにもつまらないものにもなるように、介護施設も管理者次第で、QOLの向上を目指す素晴らしい施設にもなれば、ADLの実施だけで精一杯の疲労感いっぱいの施設にもなるのです。

最初に述べましたように、QOLというものは形として現れにくく、捉えにくいものなので、ついつい見過ごしてしまいがちです。だからこそ、このQOLの向上という炎を絶やすことなく、さらに大きく燃え上がらせることが、特養で取り組むべきもっとも重要なテーマと言ってもよいのではないか、とわたしは考えています。

以上


いやいや。今回もまた熱く語っていただきました。QOLという炎をもう一度燃え上がらせようという、なんとも熱い思いをいただきました。

そう言えばこれを発信させていただく、折も折、月刊誌『老施協』2022年8月号の巻頭特集が「北欧に学ぶQOL」でした。

ICT(Information and Communication Technology)やDX(Digital Transformation)という技術を利用して、高齢者のADLの向上を目指したり介護人材の不足を補おうというお話をよく目にしますこのところ、もちろんそれも大事だと考えますけど、一方で「介護はやっぱりQOLでしょ!」という原点回帰の思いもまた熱くあるんですよね。

森藤部長、今回もまた、本当にありがとうございました!

また次回、今度は何で熱く語ってくださるのか、楽しみ待ってますよ!


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