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ヒマラヤをうろうろと 5

夏の北アルプスが、或いは週末の高尾山が常に賑わっているように、シーズン中のクンブ地域の山道は、視界のどこかに必ず人が入るぐらい、トレッカーで溢れています。

人種は本当に様々ですが日本人もかなり多く、後輩が下山した後日本語を話すことが無くなった私は、たまにすれ違う日本人の方々の会話についつい聞き耳を立ててしまうのでした。

ところが、ゴーキョから峠を越えてさらに西の谷に入ると、途端に人の気配が無くなります。いや、山中はこうあるべきですし、人がいない方が好みなのですが、あまりに突然なので少し驚きました。

この谷の氷河上流はナンパ・ラ (仏教徒の峠という意味)と呼ばれ、少し前まではチベットとネパールを行き来するためのルートだったようですが、現在は通行禁止となっています。

今までは人の通る山道や、ごつごつした岩場ばかりを歩いていましたが、この谷の上流は道がない代わりに比較的緩やかで狭い荒野といった感じです。ぽつぽつと動物の骨が転がっています。

私とシェルパのドミさんは、この荒野の真ん中にぽつんと一軒あるお家を拠点にすることにしました。家主の男性は、昔ここでロッジをやっていたらしいのですが、現在は休業して低地に住んでいるそう。今回は偶然ヤク (牛の一種)の放牧の様子を見に来ており、時間があるからと泊めてくれたのでした。

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「ドミさん、犬が追いかけてくるよ。」
宿から15キロほどの上流地点、人がほとんど来ない氷河脇で調査をしていた私たちは、雪が降る前に宿に到着しようと急いで下山している途中でした。
妙に体の大きな犬が、100m程度の間隔を保ちながら丘沿いに私たちの後をついてきます。

こんな山中に野犬は珍しいなと考えていると、ドミさんは「違う違う、あれはキツネだよ。遠吠えが犬とは違うだろ。」と答えました。

「キツネか!ヒマラヤでキツネを見るのは初めてだから、写真を撮りたいよ。」私がそんなことを言っている間に雪が降り始め、視界はどんどん悪くなり写真どころではなくなってきました。時刻は午後4時を過ぎた頃ですが、ロッジまではまだ距離があります。背中に背負っているソーラーパネルや機材をすべてザックに仕舞い込んだ後、私たちは小走りで下山を続けました。
氷河から流れ出る川をザブザブと渡った頃には、いつの間にかキツネはいなくなってました。

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「それはキツネじゃなく、オオカミだ。うちのヤクが昔からよく襲われているんだよ。最近見てなかったけど、明日ヤクを集めてこないと。」ロッジの家主は、ヤクのミルクで作ったスープを私に渡しながら言いました。
「道中骨が転がってただろ?前に襲われたヤクの骨だよ。」

考えてみればここは東西2400 kmにわたって広がるヒマラヤ山脈。西の方ではクマがいることも聞いていましたし、別の地域では朝テントから出てみると、雪面にユキヒョウの足跡が沢山残っていたこともありました。そりゃ、オオカミだって住んでるし、生きるためには他の動物を襲うでしょう。

ただ、今までの谷は人の生活があまりにも近かったのか、日常の延長で山道を歩いていたのかもしれません。
私は、今回のトレッキングの中で、景色以外の自然を初めて感じたような気がしました。

この谷に滞在して5日目、私たちはナムチェバザール(3440m)まで一気に下り、行きと同じロッジに宿泊しました。山盛りのダルバートを食べていると、隣にいたドイツ人トレッカーが話しかけてきます。「俺は明後日、文明世界に帰還だよ。」

文明世界かぁ。
ヒマラヤに入ってから1ヶ月が経っていました。

前回のお話はこちらです。もしよければご一読ください。