Sunny

DigOkinawa&Kyusyu

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最近の記事

なにが問われているのかを見失わないために

まずもって、被害者やサヴァイヴァー本人、またその周囲の人々への丁寧なケアやサポートこそが求められ、為されるべきである。こうした認識を、軍隊ならび社会に構造化されている女性(または「男」でないもの)への暴力に直面したときのわたしたちに気づかせながら、一貫してこれらの暴力に抵抗し続けてきたのは、沖縄の女性たちであった。わたしたちがまず見習うべきはこうした人々の姿であり、そのなかで、絶えず各々が自らの日常の振る舞いをも問う必要に迫られるだろう。 今回の事件を前にして、問うべき自ら

    • 一枚の写真

      沖縄の写真家で、今はなき雑誌『LP』や、また2012年から発行されている雑誌『las barcas』の編集にも関わっている仲宗根香織さんが、「Art Bridge Institute」というサイトに(たしか)月一ほどのペースでコラムを載せている。 そういえばそろそろ更新されていたのだろうかとサイトを見に行くと、3月30日に更新された一番新しいコラムが載っていて、そこには辺野古での新基地建設反対運動の写真が何枚かあげられていた。 そのなかに、ゲート前でのダイ・インの様子を捉

      • 追記:人種化された主張の分配として

         先日書いたこの「人種化された主張の分配として」(https://note.mu/sunnycloudy/n/nd46d823c1d20) について、ある人と意見を交換していて、二人とも実に同じことを考えていたので、それをふまえて誰が読んでいるともしれないこの記事ではあるが、簡単に追記を記しておきたいと思う。  記事を書きながら気づいたことに、このタイムスの特集に人種化された線引きによる分断の力学が働いてしまっている、それが見て取れるとして、しかしそのことを問題であるという

        • 人種化された主張の分配として

           先ほど、二週間弱の滞在が終わって関西に戻ってきた。本来であれば自分の研究についていろいろと考えるためのはずであったが、いろいろあって、主には県外移設論とそれに呼応した基地引き取りという主張および運動について友人や知り合いたちと対話することが多かった。書かなければいけないことは大量にあるのだが、とりあえずここでは一つだけと思う。  琉球新報の特集から遅れる形で、10月1日から10月6日にかけて、沖縄タイムスにおいても高橋哲哉の『沖縄の米軍基地――「県外移設」という問い』

        なにが問われているのかを見失わないために

          那覇、開発、風景

          十日ほど、那覇に滞在していた。 遅々として進まない、というよりか、まったくもって定まらない自分の研究についてしっかりと考える時間と場を求めて、大学院での授業の課題や書かなければいけない原稿を抱えながら沖縄にとにかく来たものの、原稿の〆切に追われてロクに自由に動くことができず(あとは知り合いと飲んだくれていた)、大半の時間を那覇周辺で過ごしていた。 久々に訪れた那覇の土地でまず目につくのは至る所で行われている建設工事の様子であり、最近新たに建てられたと思われるマンションやホ

          那覇、開発、風景

          大学と反安保法案

          学部の出身校である立命館大学は、新自由主義型大学経営の象徴的な存在であった。 そこでは利益・採算重視を徹底した経営戦略のもと、改革(改悪)は著しく、新学部・新キャンパスの設置を繰り返し、キャンパスではどこかで必ず建物の工事が行われていた。そのためには、教員費を削減し、学生の奨学金まで削減しようとしていた。 また、それらと比例する形で学内における監視・管理体制は異様なまでに強化されていた。学内の各所に配置された警備員を、キャンパスにいながら見ないということはほとんどなかった。

          大学と反安保法案

          ポジショナリティ、変わりえること

          訳あって、沖縄と日本との関係性について、ポジショナリティを重視した文章をいくつか読んでいる。こうでもなければ読まないであろうと思いつつも、やはり読んでいて疲弊するものがある。それは精神的にもだし、どんよりと圧し掛かるようにして身体的にも感じるものだ。 読んでいると、どうしてこのポジショナリティを重視する人たちの論に自分が納得できず、惹かれないのかが、よくわかってくる。特に、惹かれない理由というのが(納得できないのはだいぶ前にわかっている)。ポジショナリティという考え方の重要

          ポジショナリティ、変わりえること