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追記:人種化された主張の分配として

 先日書いたこの「人種化された主張の分配として」(https://note.mu/sunnycloudy/n/nd46d823c1d20)
について、ある人と意見を交換していて、二人とも実に同じことを考えていたので、それをふまえて誰が読んでいるともしれないこの記事ではあるが、簡単に追記を記しておきたいと思う。

 記事を書きながら気づいたことに、このタイムスの特集に人種化された線引きによる分断の力学が働いてしまっている、それが見て取れるとして、しかしそのことを問題であるということのみを言明してしまっては、では結局のところ、たとえば呉世宗さんの書かれたあの文章を非「沖縄人」(なんと気持ちの悪い言い方だろう)というカテゴリーに回収してしまうような言説の布置構図に、自らもまた加担してしまうのではないかということがあった。

 記事でも述べたように、呉世宗さんの文章が素晴らしいものでありまた大切であった理由の一つは、沖縄人/日本人というような二項対立的図式に基地問題や反基地運動を落とし込んでしまう危険性を批判しながら、この二項対立から零れ落ちるものから沖縄の反基地運動の意味を捉え直そうとする視点があったからである。そして、ここで呉世宗さんは自ら名乗りをされているわけではない。いや、文章を書かれていることが一つの名乗りであるとして、しかし、○○人という形での応答を呉世宗さんは退けられているように思われるのだ。名乗りつつ、しかし、名乗ることを退ける、とでもいうように。

 したがって、こうした二項対立的図式を批判する文章が、しかし二項対立的な言説の布置構図に回収されていくことへの拙さを指摘すべきだと思い、そもそも自分自身は記事を書こうとしていたのだが、結果としてこの布置構図が読み取れるということを理解するその瞬間において、自らもまた呉世宗さん(や西脇尚人さん)の文章を非「沖縄人」というカテゴリーに回収する構図をなぞっているようにも思われた。

 そのため、記事の最後に簡単ではあるが、呉世宗さんの文章がもつ意義を記してみたのであった。そう、なによりも、そうした人種化の力学から外れたところから、かつそれを批判するものとしてこそ、あの呉世宗さんの文章は紡がれているということは、幾度も確認されるべきであろう。

 そして、冒頭に触れた方との意見の交換をして改めて強調すべきだと思われたのは、このように人を○○人と名乗らせ、踏み絵のようにして県外移設および基地引き取りへの賛否を問うような問いかけが持つある暴力性を批判的に考えることの大切さであろう。ここにあるのは社会の多様な関係性をすべてにおいて人種化していくような分断の力学であり、そこには逆説的な形での国民主義が立ち現われかねない。

 その意味で、こうした特集はそもそも組まれるべきものではなかったのではないかというのが、わたしなりの現時点での結論ではある。

 そのうえで、考えなければならないのは、こうした人種化の力学が覆い隠してしまう事柄がなにかということになるのだろう。それは運動空間に生起していく別の未来のありよう――とだけ肯定的には言えるものでは到底ないが――であり、沖縄社会内部の多様性であり、また沖縄をめぐって進行している開発と、日本「本土」の状況も含めた社会における格差の拡大、つまるところは、階級と資本の問題でもあるだろう。

 誤解が生まれないことを願って、これを記した。(2015.10.21)